『true tears』と物語の想像力

相変わらず僕の半径3クリック以内ではこの作品が話題になっているようですが、婦中町のファボーレや今川焼き(富山では大判焼き)などを出して富山県民のプライドをくすぐり、「実は俺も富山県民なんだ!」と言わずにはいられなくする、実にいやらしいアニメであると思います(褒め言葉)。ちなみに僕はファボーレよりも高岡サティの方に行くことが多かったです(訊いてない)。
という話は既に、全世界1億人の隠れ富山県民がやっているので適当に切り上げ、本編の話に移りたいと思います。前回の記事ではOP映像を取り上げているので、興味がある方はそちらもどうぞ。
アニメOP・ED映像論〜『true tears』OPを例にして〜 - tukinohaの絶対ブログ領域

true tears vol.1 [DVD]

true tears vol.1 [DVD]

物語の舞台は「架空の」地方都市。あくまでも現実を逸脱しない範囲で作られたその世界の中で少年少女たちは出会い、そして暗闇の中を歩くようにお互いの真意を求め合い、時には傷つけあう姿が描かれています。
この作品の特徴というのは、古典的かつ安定した映像表現を用いる一方で、物語全体の構造においては過剰な「物語性」が極力排除されていることではないか、と思います。例えるなら、シナリオに抑制を効かせた京アニ、あるいは深夜アニメに進出したジブリ
 
第1話より、仲上眞一郎・石動乃絵の会話シーン。眞一郎が乃絵をからかうと、乃絵の髪の毛がふわっと持ち上がります。そこはかとなくレトロな感じの演出ですね。『となりのトトロ』を思い出しました。
 
同じく第1話より、湯浅比呂美が家を出て学校に向かうシーン。ズーム、スローモーションの組み合わせで「跳ねるような」動きを印象付けています。このシーンに限らず、場面転換の際に俯瞰(あるいはロングショット)からズームという組み合わせを頻繁に見つけることが出来、良くも悪くも「教科書通り」という印象。ただ、非常にクオリティの高い背景画によって、ロングショットの効果が最大限に発揮されているのも事実です。

第3話より、仲上眞一郎・湯浅比呂美の会話シーン。確かに綺麗なんですが、『ef』のように雲がびゅんびゅん動いたりはしない。「静謐」というイメージがぴったりですね。


ここまでが、どちらかと言えば保守的な部分。しかし、先にも述べたとおり『true tears』の面白いところは、過剰な「物語性」が排除されている部分にあります。物語性というのは、例えばストーリィの明確な方向性。「ツンデレ」「ヤンデレ」といったわかりやすい「キャラクタ」(役割、と言っても良いでしょう)。伏線、回想、モノローグなどを用いた物語世界への介入などなど。この辺の話については『新・アニメ・批評』さんがまとめているので、そちらを参照していただければと思います。

どうでしょうか、このテレビアニメは異例的に「静謐さ」を讃えているようには感じられませんか。具体的に言いますと、登場人物たちの台詞がとても少ないのです。説明的な台詞は最小限に押しとどめられ、語りよりも「沈黙」を、物語よりも「映像」に重点が置かれているように見えるのです。
(中略)
この「静謐さ」は2つの重要な事実をわたしたちに教えてくれます。ひとつめは、「音声のイメージ」よりも「音響のイメージ」の方がこの作品においては支配 的であるということ。もうひとつは、この作品が私小説的(相対的に考えれば眞一郎くんの独白の量は多過ぎます)でありながら、眞一郎くん自身も「静謐」な ために、全ての登場人物が「他者」的なものとして表象されているということです。

新・アニメ・批評 - FC2 BLOG パスワード認証

上の記事で強調されている「わからない」という感覚、これは何も視聴者だけが感じていることではなく、登場人物にだってわかっていない。第2話の、眞一郎がそれまでの出来事を思い返しているシーンはある意味セルフパロディですね。

「俺は、木の上の石動乃絵を見つけて、ニワトリがタヌキに襲われて、赤い実もらって、比呂美が話しかけて、朝、目があって、アブラムシ……」

この「わからない」という感覚、これは非常に大切なことであると僕は思います。『true tears』の話から離れるかもしれませんが、そのことについて少し。
多くの場合、物語の登場人物は個人であると同時に何らかの「典型」でもあります。あいつは悪人だ、いや悪人の振りをした善人だ。そうすることで僕たちは「理解したつもり」になることが出来る。というか、「理解したつもり」にさせることが物語の本質的な機能だと言っても良い。でも、それがリアリティかどうかは別問題ですよね。現実ではみんな違ったことを考え、異なる目的のために生きている。
そんな現実において、他者を理解するということは、ある一面においては非常に感覚的な作業であると言えます。現実の人間をアニメのキャラクタのように「ツンデレ」とか「ヤンデレ」といったステレオタイプに押し込めれば、それは即座に無理解と偏見へとつながってしまう。他者を、自分と同じ苦しみを受ける可能性を持つ人間として考え、内面への想像力を向けること。石動乃絵の言葉を借りるなら「真心の想像力」を働かせる必要がある、と僕は考えます。

「相手が、どうして苦しんでいるのか。どうすれば救えるのか。真心で考えるの」

第4話より、石動乃絵のセリフ。同居人の少女を助けたいと願いながらも空回りを続ける「優しい」眞一郎と、優しくはないかもしれないけれど本当の意味で他人を助けることの出来る乃絵の対比。突飛な行動を取り続ける彼女が一番現実を見据えていたというギャップが面白いですね。