『true tears』における他者と共感の問題

true tears vol.2 [DVD]

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最終話を視聴。これまでも漠然と感じていましたが、特に最終話の展開は明らかにアニメ版『君が望む永遠』を意識しているようですね。三角関係、絵本、夕方(原作では昼間)の浜辺でひとりと別れ、その後で残ったひとりを探し回るところ、などなど。「痛み」を伴う別れのあと、時間の流れによって彼らが癒されるという点も同じ。

ただ、『君が望む永遠』の場合は物語の全体を主人公が把握し、(追い詰められた結果にせよ)主人公の選択が物語を回転させていくというスタイルを取っていたのに対し、『true tears』の場合は全体を把握する人物がいないという違いがあります。例えば三代吉と愛子、それに主人公の三角関係。主人公の知らない間に始まって、主人公の知らない間に解決してしまっている。
この作品を見ていて最も素晴らしいと感じた点はそこで、主人公だけでなく多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているのが当然なんだというリアリズムを感じます。特に三代吉の人物造形は秀逸。この手の作品における「主人公の親友」キャラというのは、主人公の引き立て役だったり、サポート役だったりで、個人としての魅力をもったキャラというのは割と少ないのですが、その点、三代吉の「しぶとさ」あるいは「みっともなさ」は実に新鮮でした。


前回の記事では石動乃絵の「真心の想像力」という言葉を取り上げ、他者を理解することはある一面において非常に感覚的な作業である、という話をしました。他者の苦しみを自分のものとして引き受け、共感の範囲を広げること。比呂美の想いを知った乃絵は自ら引き下がらざるを得なくなったように、彼女の他者理解というのは概ね共感によって「私たち」の領域を広げていくこと基づいたものです。
しかし、こうして共感の範囲を広げていくことによって、「私たち」の中の多様性、マイノリティの存在に対して盲目になるということがあります。共感というのは実践的な倫理のあり方ですが、実践的であるだけに、根本的な理解には繋がらないことがある。こうして考えると、やはり石動純というキャラクタは外せないところだな、と。

表面的には「優しい兄」である彼の中にも、乃絵にとってはどうしようもない「他者」としての性質が存在している。この物語における乃絵の成長とは、そうした他者性と正面から向き合えるようになること、理解し合えなくても上手くやっていける関係を築き上げることだったのかもしれません。それを人は「自立」と呼ぶのでしょう。


不満に感じた点についても少しだけ。
物語の構成においては、どの回においても山場と次回への「引き」を用意しておく、という基本的なスタイルがとられています。確かにこれは有効に機能していて、僕自身、1話見るごとに次の話が見たくなるという具合でした。しかしその反面、全体を俯瞰的に見渡すと各エピソードに繋がりが欠けていたり、説得力に乏しかったりと、どうも「話を転がしている」という印象を受けます。特に眞一郎の母と比呂美とのトラブルなんてその最たる例で、どうして喧嘩していたのか結局よくわかりませんでした。どうも眞一郎の世代とその親の世代とで似たようなことがあったのだろうな、ということがわかる程度。
それとは逆に、描写の過剰さが目に付くシーンもありました。例えば11話、押入れに籠もって思い悩んでいた主人公が、決意を固めて出てくるところ。

この場合、押入れが子宮の象徴で、決意を固めた眞一郎がそこから出てくる=生まれ変わったことをアピールしているのだ、ということはそれほど説明を要しないことのように思えるのですが、あえて眞一郎に口で説明させる(「おぎゃあ」という不自然な台詞を入れる)必要はあったのかな?と。


こうした多少の瑕はあるにせよ、この作品の魅力は第一に映像であることを忘れてはいけません。「イメージの回転が脳に直接伝える、あの一種の身体的陶酔がある。精神は、いかなる表象とも無関係に感動するのだ」というアントナン・アルトーの言葉は、この作品においても当てはまるでしょう。

俯瞰からクローズ・アップを多用する動きに富んだカメラワーク、ちょっとした仕種や体のパーツをフェティッシュに描く視線、シーケンシャルな時間構成の中で唐突に挟みこまれる静止画とその間も流れ続ける音声の対比、そして風景の美しさ、光の描写など。こうした作品のタッチともいうべきものの中に『true tears』の魅力があります。