物語と倫理

俺が文学や芸術を使って社会・政治・宗教・倫理についてメッセージを発したり干渉しようとしたりする試みに距離を置くのは、インチキがやり放題だからだ。社会・政治・宗教・倫理が「実際にどう効果するか」を議論するものであるのに対して、文学や芸術は、実際的な効果を捨象し、「どのように表現すれば受け入れられやすいか」を探求するものだからだ。文学や芸術のテクニックを用いて行われる言明はなんでもありのインチキだ。たとえば、「サルにでも描けるまんが教室」では、実際に、包茎禁止法推進漫画と包茎禁止法反対漫画をまったく同じ絵面、コマ割、ストーリー展開で、吹き出し内の単語を単純に入れ替えるだけでやって見せている。

はてな

物語でのみ描きうる倫理的主張というのは存在するのか、ということは割と重要な問題ではないかと思います。この場合「倫理とは何か」ということから考えなくてはいけないわけですが、仮に倫理を何らかの普遍的な真理・原理であると見做すならば、物語はそれを伝えるための道具でしかありません。
ただR.ローティが主張するように、真理の追究であるとか普遍的道徳の探求であるとか、そういったものを棚上げして、倫理の基礎を「我々」の領域の拡大に求るのであれば、物語というのは倫理の形成において独自の役割を果たすことが出来ます。
ローティは、例えばナボコフの『ロリータ』を取り上げて、あの小説は自分のことしか考えない(「我々」の領域が狭い)主人公の、他者の苦しみに対して無自覚なことの残酷さを描いたものであると論じ、オーウェルの『1984年』を取り上げた部分では、後半の拷問シーンで読者が犠牲者に対して想像的同一化(=共感)を果たし、それによって拷問の残酷さに気づくことが出来るのだ、としています。
要するに、人が倫理的に振舞おうとするのは家族や親しい知人のような「我々」の間だけなのだから、文学作品などによる説得的描写を通して「他者の受苦への共感」を行い、「我々」の領域を拡大していこう、というのがローティの主張。
もちろん、ローティがしばしば自らの立場を「エスノセントリズム(民族中心主義)」と規定するように、物語を通して「我々」の領域を拡大していくことが逆に「彼ら」との距離を広げてしまうこともあります。id:kaien氏が映画『300』を取り上げて「文明的なヨーロッパ、野蛮なアジアという図式は、今日なお、ちっとも崩れてはいないらしい」と書いていますが、そういうこともある。
その意味で、9.11の後、アメリカ人は犠牲者や同胞に向ける想像力(=愛国心)を他の国々(特にイラクアフガニスタン)に住む人々へも向けるべきであるとしたマーサ・ヌスバウムの仕事は注目に値すると言えるでしょう。ヌスバウムは黒人や兵士など抑圧されてきた人々の声を代表する作品を取り上げ、その内面への想像力を働かせることを主眼とした批評を行っています。「共感」を重視する点においてはローティと同様ですが、人類に共通する基盤に立って他者を理解しようという点においては全く異なります。
ついでに書いておくと、『true tears』というアニメがありますが、あれはヌスバウムの道徳論と共通する部分が多いような。「真心の想像力」というフレーズとか、あと家族内での抑圧を描いているところとか。『CLANNAD』の家族なんて思いっきり鏡像関係だもんね。


参考URL
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Richard%20Rorty.htm
http://www.geocities.jp/left_over_junk/Nussbaum_2001-12-17.html

true tears オリジナルサウンドトラック

true tears オリジナルサウンドトラック