「社会問題と貧富の懸隔(上・下)」(『愛媛新報』1914年3月17日)
執筆者は早稲田大学教授の永井柳太郎。永井はのちに政界入りし、民政党親軍派の中心人物として大政翼賛会の結成にもかかわった。この記事で永井は、「現代の文明」のもとで国富が著しく増大したにも関わらず、それが大資本家や大地主のもとに集中しており、労働者や小作人は苦しい生活を強いられていると述べている。小資本家が大資本家と競争することは困難であり、そのため小資本家はトラストの中に組み込まれる。機械工業の発達は農民の副業に打撃を与え、彼らは土地を手放さずを得なくなる。
「現に村会議員の選挙権所有者は我国に於ける中等農民を代表するものなるが其村会議員の選挙権を有するものの数は年々減少しつつあるは確かに此間の消息を説明するものと云ふべし」。
このような資本主義に対する批判的見地と、永井がのちに社会改革の担い手として軍部に期待を寄せ民政党親軍派の中心になっていくことの間には、何らかの関係があるのではないだろうか。
もうひとつ重要だと思われるのが、永井が早稲田大学で「植民学」を教えていたということである。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/17493
「内に立憲主義、外に帝国主義」とは大正時代の思想傾向を示すフレーズであるが、「外」の植民地で行われた社会改良と、「内」の本土で行われた社会改良はおそらく無関係ではない。

秋田県の大地震」(『東京朝日新聞』1914年3月16日)
出来事の概要については秋田仙北地震 - Wikipediaを参照。
地震が起こったのは3月15日。翌日の報道では死者45名、家屋全壊251棟。さらにその翌日(17日)には死者83名に増えています(最終的には94名)。これだけの死者が出ているにも関わらず、紙面に割かれているスペースはさほど大きくないのが不思議です。

‎久住昌之・谷口ジロー『孤独のグルメ』

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

孤独のグルメ (扶桑社文庫)

本棚に『孤独のグルメ』を置いているサブカル野郎は高確率で『ジョジョ』が好きで、うっかり話しかけると『ジョジョ』のどうでもいい薀蓄を聞かされるぞ逃げろー!というひどい偏見を持っていたので、読むのは今回が初めてです。
食堂、居酒屋、デパートの屋上と色々なところで主人公・井之頭五郎が食事をする。店内の風景や客層、食事の内容について五郎が(解剖学者のような口調で)感想を述べる。基本、これだけの漫画です。ときおり食事を終えた五郎が浮かべる「ヘヴン状態!」みたいな表情が最大の見どころでしょうか。あと、散々ネタにされていますが、詩的なようで詩的じゃない比喩のセンスが笑えます。
「ここでは青空がおかずだ」(デパートの屋上でフランクフルトを食べながら)
「うおぉン 俺はまるで人間科学発電所だ」(工業地帯の焼肉屋で)
あと、理路整然としていない素朴な心情であるだけに何言ってるのかよくわからない独白も。
「しかし…まあいいけどやはり焼きそばと餃子だけだと なんとなく堂々巡りしているようだ」(中華料理屋にライスが置いてなかったとき)
結構面白く読めたのですが、途中、五郎の過去の回想シーン(昔の恋人の話とか)が出てくるのは余計だと思いました。目の前の食事を丹念に描いていく本筋から浮いてしまっているという印象。

「村田翁の演説 首相を痛罵して余念なし」(『東京朝日新聞』1914年3月15日)
シーメンス事件の関連記事。3月13日の貴族院本会議速記録からの転載である。演説をしているのは元水産官僚・貴族院議員の村田保。趣旨としては政府批判、与党政友会批判であるが、口汚さが(ある意味)興味深いので少し引用してみよう。

山本大臣閣下よ、閣下は人間の尊ぶ所の名誉、廉恥と云ふことを本員は御存知なくはないかと云ふことを疑ひます、何となれば人民が閣下に対しまして、公然公衆の前に於て閣下を国賊と言つて居るではありませぬか、又海軍収賄の発頭人だと云ふことを申して居ります、又閣下の面貌は監獄へ行けば類似のものは沢山あると言つて居ります

最後の部分については、当時の流行思想であったロンブローゾ犯罪人類学の影響が感じられる。「犯罪者になりやすい人間は、身体的に顕著な特徴を持っている」という考えのこと。ちなみに翌日の『二六新報』には泉鏡花論として次のようなことがかかれている。「〔鏡花の奇行の紹介に続けて〕「天才は狂気なり」とは、ロンブロゾーの説である、「狂人」が「天才」なのか、「天才」が「狂人」なのか、それは知らぬ〔中略〕私は言ふ、鏡花の「鏡」は、狂人の「狂」であるが故に、初めて其処に彼の価値があるのではないかと……」。
肯定的な意味においても、否定的な意味においても、「狂気」が社会的に注目を集めた時代であった。

「大正博の美人国」(『東京日日新聞』1914年3月13日)
安田雅彦によると、大正の15年間で合計116回の博覧会が開かれている。1914年の3月20日から7月31日まで開かれた東京大正博覧会はその中でも特に有名なものであるが、「自由・平和が協調〔ママ〕され産業博色が薄れ、文化性や娯楽性が盛り込まれるようになり、746万人を集めた」という。
参考:絵葉書に見る大正時代の博覧会
パビリオンの中では「美人島旅行館」が著名。選りすぐりの美女を様々な趣向を凝らして披露する、要はコスプレ美女の展示館である。今日取り上げる記事も(大正博覧会の準備段階で書かれたものだが)客寄せに美女を使っていたという話。
東京半襟組合(半襟は和服の襟につける飾りみたいなもの)は大正博覧会に、お座敷・茶室を備えた数寄屋造りの小展示場を設けた。「組合でも始めから女に縁の深い商売であるから此の座敷に座らせて看板にする美人の選択には随分苦心を重ね」、○○、○○、○○の三名(記事では実名・年齢・生家が書かれている)が選ばれた。この三人は「始めから賑やかな中に出て精々良縁を求めたいと希願して居つたのである」。「陳列上では一切他と口をきく事を厳禁されて居るが其代り努めて態度をしとやかに触れば散らん風情を見せると言ふ事である」。
なお、この記事では「美女による客寄せ」がこのパビリオンに限ったことではなく、いくつかの「余興飲食店」(おそらく性風俗店ではないだろうが、実態不明)でも用いられていることを伝えている。

「内閣弾劾演説会」(『大阪朝日新聞』1914年3月12日)
シーメンス事件を直接のきっかけとしているのだろうが、当時の山本権兵衛首相、原敬内務大臣に対するほぼ全面的な批判が述べられている。実際に演説会が行われたのは3月10日。複数の人物が演説しているので、要点だけあげておく。
・山本内閣は不敬であるという批判
「毎日社原豊太郎氏は明治天皇の御製〔の歌〕を奉読して山本、原両相を攻撃し〔中略〕本社木崎愛吉氏は良民の催せる演説会場に多数の警官が出張するは何故なるやと詰り憲政を破壊する閣臣を攻撃するには少々の負傷くらいは覚悟の前なりとて満場を唸らせ夫れより御即位大典の性質を論じ憲政を毒する現内閣員は陛下の罪人なりと云ふや〔中略〕国民は必ず御大典期までに彼等を葬るべしと痛論し
補足:五箇条の御誓文にある「万機公論に決すべし」を援用して、議会を弾圧する専制政府を批判するロジックは、日本に議会が作られる以前(自由民権運動期)から存在する。福沢諭吉はこのような「論敵を不敬と決めつける絶対的否定」を議会主義の精神に相反するものとして批判していた。
・司法批判
「渡邊菊之助は「国民の覚悟」と題し日本の法律は中流以上の社会に対しては殆ど権威を有せずとて司法権の存在を疑ひ」「板野友造氏は権力あるものの犯罪は之を如何ともする能はざる如き状態にては国民風教に関する一大事なり」
・ところてん主義
「法学博士岡村司氏は「政治上に於ける老人跋扈の弊」と題し今日最も不快なるは老人跋扈の弊なり余は之を心太主義と称せんとす恁るヨボヨボ連中が後より順々に押し出されて政界に現るるは誠に困ったものなり」

長谷川哲也『ナポレオン 覇道進撃』

現在連載されている歴史を題材とした漫画のなかで一番面白いのは、長谷川哲也の『ナポレオン』ではないかと思う今日この頃。途中で一度タイトルが変わっているのですが、通して21冊、連載期間は10年に及びます。徐々に話の進むペースが速くなっているので、あと5年くらいで完結するのではないでしょうか。
本作に描かれるナポレオン・ポナパルトですが、これがナポレオン像のスタンダードになるんじゃないかというくらい妙な説得力があります。「アウステルリッツの戦い」の直前に兵士を鼓舞してまわり、兵隊を慈しむような視線を向けながら「みんないいやつだ。明日お前たちの何割かが死ぬ。残念だ」と独白するナポレオン。何割かが死ぬ(使い捨てる)ことは当然なのです。
最近はナポレオンが完璧すぎて話の中心になりにくく、周囲の(ナポレオンの)元帥たちを中心に話が展開しているような感もあります。アウステルリッツに勝利し、ヨーロッパの覇者に近づいたフランス帝国。戦線も拡大し元帥たちの出番も増えていくわけですが、彼らがどう描かれるのか。また、ロシア遠征での敗退からワーテルローでの最後の戦いに続く没落期をどう描くのか。これから益々楽しみな漫画です。


そういえば『サガフロンティア2』で「サウスマウンドトップの戦い」という戦争が描かれるのですが、これって明らかにワーテルローが元ネタですよね?>識者