徐々にブログの書き方を忘れつつあるので、リハビリとして身辺雑記的なことを少し。
GWは部屋に引きこもり、書類や研究報告の原稿などを書いていました。ブログを書くのとは勝手が違う……というのは当たり前なんですけど、研究計画書のような書類でも、ついブログと同じように、上から思いついた順番に書いてしまう。このブログの1記事くらいの長さならそれでも問題ないのですが、5000字を越えるとボロが出てきますね。『最果てのイマ』論も読みにくかったし。
いきなり文章構成が上手くなるということはあり得ないので、普段からちょっとずつ成果をまとめて、出来るだけ長文を書かずに済ませたいものです。
ちなみに最近は、丸山眞男の本を少しずつ読んでいます。丸山の「市民社会」論に関心があります。といっても丸山自身は「市民社会」という言葉をほとんど使っていませんし、「社会」も主題にはなっていない。「国民国家」よりは全然重要ではない。最近、杉田敦氏による編集で『丸山眞男セレクション』が出ましたが(もちろん買いました)、「国民国家」論者としての丸山眞男を知る上では適切な論文が選ばれていると思います。丸山を「市民社会」論者として読もうとする私よりはよほど真っ当な見方だと言えるでしょう。
絓秀実によると、「市民社会」に対してネガティブな印象を持っていた丸山も60年の安保闘争を経ることでそれを肯定的に評価するようになった、とのことですが(『吉本隆明の時代』)、68年に書かれた「個人析出のさまざまなパターン」のような論文を読む限りでは、60年を境にそう大きく考えが変わっているようには見えない。絓が丸山の「市民社会」に対する否定的評価を、丸山の大正時代(というか大正デモクラシー)に対する否定的評価と関連づけているのは正しいと思うのですが、市民社会と大正時代への評価が変わるのは最晩年、90年以降においてです。例えば95年の座談会で、丸山はこう言うわけです。「社会連帯主義」や「1920年代の多元的国家論など、再考の余地があります」と(『吉本隆明の時代』はいつかきちんと批判します)。
丸山眞男1920年代」というテーマは結構面白いと思うんですよね。丸山の師匠である南原繁長谷川如是閑が活躍を始めたのがちょうどその時期ですが、丸山が彼らに言及するときは常に「偉い人たちだけど自分とは違う」という留保を付けていた。では丸山が彼らのどこに反発していたかというと、大正時代における「社会の発見」の主役であった彼らの「社会」概念に対してではないか、と。これについてはいずれ。