大正期の社会と社会科学(6)―清水真木『忘れられた哲学者』について

大正から昭和戦前期にかけて大流行した新カント派哲学も現在ではほとんど忘れ去られ、廣松渉が弟子の大黒岳彦を「最後の新カント派」と紹介してから早数十年。哲学的素養に乏しい歴史学者にとっても、歴史学的素養に乏しい哲学者にとっても扱いづらく、思想史的に重要だと言われながら敬遠されてきました。近年になって僅かながら新カント派再評価の動きがあるように思うのですが、まさか新書で出るとは思わなかったので驚いています。
本書の主役は哲学者・文明批評家の土田杏村。短命であったことも関係して現在では知名度の低い人物ですが、1920〜30年代にかけて流行した、新カント派哲学を基礎とした文明批評=文化主義を代表する論者のひとりです。著者の清水真木氏は以前『思想』で「風景の終わり」という印象的なタイトルの論文を書いており、本書でも土田杏村や彼の議論の文脈が社会から失われていく、ある意味では土田的なものが「終わって」しまう過程が詳細に記述されています。実際、本書の半分近くは「いかに現在土田が読まれていないか、なぜ読まれないか、読まれたとしても誤解されるか」を説明することに費やされています。そうした傾向に抗い、土田杏村の「現代的意義、アクチュアリティ」を取り出すのが本書の目的なのですが(p6)、それに成功しているかといえば……。
本書では土田が生きた時代のあり方、大正デモクラシーとの関連についてはほとんど触れられていません(第1章で仄めかされる程度)。ただ、国家の繁栄と個人の幸福を無批判に重ね合わせるような明治的ナショナリズムが後退し、国家主義批判、利害関係の多元性や個人の「人格」の尊重、すなわち「社会と人間の発見」(飯田泰三)という大きな流れのなかで、それを基礎づける哲学が要請され、土田のような哲学者兼文明批評家が現れた、と言うことはできるでしょう。新カント派哲学では「価値」という概念が非常に重要な役割を果たしますが、ドイツでは価値の序列が重視されたのに対し、日本では(土田においては特に)「諸価値の平等」が重視されたという違い(第4章)は、上記の社会背景に由来すると考えられます。
ナショナリズムを批判して多元性を擁護し人格を尊重する。また本書ではほとんど扱われていませんが、マルクス主義に批判的であった点(つまり「マルクス主義は労働者文化ばかり贔屓してほかの文化をないがしろにする」という批判)などは、現代思想とも親和性を有しているように思われます。しかし……。

この「文化主義」あるいは「人格主義」は、「改造」「黎明」がスローガンであった一時期の論壇を風靡しつつも、実際には現実の社会にさしたる具体的影響力を行使することなくいつしか論壇の中心から姿を消してしまった。それもそのはずであり、この「文化主義」とは、そもそも現実の社会的な問題に対して解決の具体的な指針を提供する類のものではないのである。
――清水太郎「大正・昭和思想の「見失われた環」『現代思想』21(7)、1993年、229頁――

これ〔上のような批判〕もまた繰り返えされてきた指摘であるが、われわれは次のような視点を付け加えてみることにする。大正期の「文化」は安易な流行語ともなり、表層的に使用され、多くの知識人層の批判を浴びる。ただその一方で、知識人層はまた自らの手でかなり質の異なる……「文化」の概念を育て上げようとしていたのだった。軽薄な「文化」と深遠な「文化」はしかし対立しつつ、その「文化主義」という局面において共存する。……たとえば、あまりにも深遠な哲学者たちによる「文化」は、その空虚さにおいてほとんど内容を欠いた器のようなものとなり、やがて訪れる内容の充溢を期待しなければならなくなる。……内容を欠いた空っぽな「文化」はやがて「日本」(=国民)という充実した内容物を手にし、自信たっぷりな表情を周囲に示すことになる。「文化」とは自他を区別する境界線であり、その器に収まる内容物そのものに関係なくただ差異は産出する装置だ(……「大正文化」もまた世界における自らの位置づけを意識することを出発点としたのだった)。
――北小路隆志「〈文化〉のポリティックス(1)―大正の「文化主義」を巡って」『情況』第2期7(9)、1996年――

こうした批判を退け、なお「アクチュアリティ」を主張するほどの説得力を本書から感じることはできませんでした(あと、第4章で左右田喜一郎と土田杏村の比較が行われていますが、左右田の見解を紹介する際、どの著作に基づいてそれを主張しているのかわかりづらい点が多々あったので、これも何とかしてほしい)。第3・4章では哲学史的な文脈のなかに土田を位置づけるべく、新プラトン主義、ヘーゲルフッサールライプニッツと縦横無尽に引用しながら比較を重ね、圧倒されるのですが、ライプニッツモナド論と土田の議論は似ていますねと言われても、そこにどういうアクチュアリティを見出しているのかよくわからない。
すでにほかの方が指摘されていますが、忘れられたのは土田だけでなく当時の新カント派哲学者ほとんどすべてなので、「なぜ土田が忘れられたか」と問いを立てるのは少々不毛な感じがします。むしろ「なぜ土田が(ある時期においてのみ)読まれたか」を考えるべきでしたね。


大正期は一般に社会学の確立期とされていますが、社会学自体は明治からあるわけで、正確には「〜社会学」の確立期というべきだろう、と私は思っています。「事実」と「価値・規範」の区別、さらに「事実」と「社会」の区別を前提にして、「価値・規範」の源泉として「社会」があると考える。つまり個々の事実や個人とは独立に社会が存在し、社会によって事実や個人に意味づけがなされる、というわけです。このように「事実とは区別され、同時に事実に価値・規範を与えるものとしての社会」を、価値・規範の種類に応じてそれぞ研究していこうというのが「〜社会学」であり、土田杏村は「価値の複数性」とそれに応じてやはり複数存在する「(特定の価値を共有する)社会」を論じることで「〜社会学」の成立を哲学的に基礎づけた、と言えるのではないでしょうか。この点については(土田を主題にしたものではありませんが)論文で書いたことがあるので以下を参照のこと(PDFです)。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no96_02.pdf
しかし、土田のように「価値・規範」と「社会」をイコールで結びつけてしまって良いのだろうか……ということは、1930年代の土田が「典型的なナショナリスト」(第5章)であったことと合わせて考えてみる必要があるでしょう。価値・規範と社会がイコールであるならば、社会への参加を通してしか価値・規範の実現はできない、ということになります(田辺元の「種の論理」みたいですね)。それに比べると「いまの社会においては価値として認められないけれど、それでも価値と呼べる何かがあるのではないか」と考え、それを創造者価値と名付けた左右田喜一郎の方に私としては肩入れしたくなります。