『SHUFFLE! MEMORIES』という怪作
『SHUFFLE!』といえばヤンデレ女王楓さん、という感じなのですが、今回はあえて別の方向から光を当ててみたいと思います。テーマは「総集編」という形式について。
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2007/02/23
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ほとんど全て総集編って、前代未聞ではないでしょうか。『ガンダムSEED』も結構なものでしたが、その比ではありません。この極端さゆえに、総集編という形式の持つ特性が見えてきます。
総集編という形式はオリジナルとの同一性を主張します。しかし、本当にそれが「同じもの」であるならば、形式の必然性というものはなくなってしまうのではないでしょうか?10話分使って話しても良いけれど、総集編として1話にまとめても良い。では「10話分使って話す」必然性とは何か?ということ。
例を出しましょう。『SHUFFLE!』本編では2話使った内容が、『MEMORIES』では1話で消化されたとします。『MEMORIES』が良い総集編ならば、読者はそれを『SHUFFLE!』と同じだと感じるでしょう。
そうすると、次のような疑問が浮かんできます。「1話で出来る内容なのに、最初に2話も使ったのは何のためか?」
『SHUFFLE!』は無駄だらけの作品だったから、と切り捨てることは容易いことでしょう。しかしそれはあまりに意味がない。そこでもう少し深く「総集編のメカ二ズム」について考えてみることにします。
物語を分析する際に有効な手段となるのが、物語を「物語そのもの」と、読者が頭の中に作る「あらすじ」、そして「あらすじ」が広まっていく「語り」の3つに分けて考えることです。この分類方法はお手軽なので、思考を整理したいときにはオススメ。
ところで、僕は総集編という形式を「あらすじ」が「物語そのもの」として可視化されたものだと考えています。総集編はオリジナルとの同一性を主張する、と先述しましたが、ここでいう「オリジナル」とはあくまでも読者の頭の中に残る「あらすじ」のことです。作品が読者に向けて作られる以上は。特に『MEMORIES』のような、オリジナルが発表されてから時間が経ち「あらすじ」が「語り」を通して広まった作品においては、やはり「あらすじ」の存在が大きく繁栄されていると考えるべきでしょう。
そして、この「あらすじ」を生み出していくのは先述したとおり読者であり、しかも特定の個人ではない「読者一般」という人間外のものです。つまり『MEMORIES』においては、作者が物語を生み出し語るのではなく、「読者一般」という人間ですらないモノが「語り」を通して広まった「あらすじ」を「物語そのもの」へと変換していく、そんな作業が行われています。
そのため総集編を語るには「物語そのもの」「あらすじ」「語り」という分類すべてを横断し、特定個人としての読者だけでなく「読者一般」という奇妙なものを視野に入れなくてはいけない。『MEMORIES』の語りづらさはその辺に起因しているのではないでしょうか。
そんな難しいことは考えたくない?
気楽に感想を話したい?
そんなあなたのために「あらすじ」において切り捨てられるものを含んだ「物語そのもの」が生み出され、「物語そのもの」は「あらすじ」を生み出して総集編となり、総集編が嫌いな人のために「物語そのもの」が……(以下無限ループ)