真琴シナリオが気持ち悪くても作品を作り変えろとは言えないはずだ

カノンの沢渡真琴シナリオについて。
あれは気持ち悪いシナリオであると思う。
もちろん、泣けるという感想はわかる。アニメとしてのできはいいし、とても共感を抱きやすいシナリオになっていると思う。が、それを感動できたというのは何か間違っていると思うのだ。
(中略)
あの話の中には、真琴に対する同情と義務と都合のいい共感しかない。可哀想な彼女をみて、感傷的な気持ちを抱く自分に酔っているだけなのだ。だから、真琴は一週間やそこらという短期間で死ななければならない。延命などは望まれてはいない。
(中略)
本当に感動できるものを作ろうとするのならば、安易で都合のいい感傷に落とすのではなくて、どうやったらそういう状況の真琴とうまく付き合っていけるかを考えなければならないはずだ。
http://d.hatena.ne.jp/hakuoh/20061209#p1

まっとうな感じ方だと思うので、大筋において異論はありません。
ただ、「本当に感動できるものを作ろうとするのならば」の辺りからちょっとおかしい。
作品に対して何らかの不満を感じたので、もっとこういうふうにすれば良いのに、と結論するやり方は、規範批評的で、僕も含めていろんな人が使う典型的な手法なのですが、決してそれは他人に向けて「〜なはずだ」と言えるほどの正論ではないのです。


白翁氏による上の文章の問題点は、既に確定しているシナリオと、白翁氏の考えた「どうやったらそういう状況の真琴とうまく付き合っていけるかを考え」ることがテーマの、ありえたかもしれない理想的なシナリオとを比較している点にあります。なにせ理想的なシナリオなんだから、それと比較されたらどんな名作でも欠点だらけです。あれが足りない、これが足りないと無限にケチをつけることが出来る。どう考えてもフェアなやり方とは言えません。
それ以前の問題として、比較対象としてあげるシナリオが、なぜ元のシナリオより優れているかの裏づけがありません。はっきり言えば、同人誌作家の書いた2次創作となんら変わるところがない。批評ではなく、2次創作物の発表会にすり替わってしまっているのです。


以上のような、批評の姿を借りた自己主張、もっと露骨に書けば人生観の披露は、どこにでも見られるだけに、たまにはその不合理さを思い出したほうが良いのではないでしょうか。
真琴シナリオに感動したと思っている人は、自分に酔っ払っているだけかもしれない。そう思った白翁氏の感性にケチをつけるつもりは全くありませんが、だからと言って作品に問題があるという根拠にはなりません。偽善でもなんでも、相手に「感動した」と思わせれば、作品の目的は(少なくともその一部分は)達成されているからです。
批評においては、その作品が何を目的として作られたのか、また批評は何のために行われるのかを明確にするべきでしょう。それが出来ないのであれば、自己満足すれば良いと思います。他人に満足を求めるよりは幾分良いでしょう。


大学でも、「人間と社会」みたいな名前で、ひたすら教授が自分の人生観を話し続ける講義ってありますよね。あの手の講義が社会の役に立つとは思えないのと同じように、あいまいな根拠によってなされる批評が作品を育てるとは思えません。