これからアニメ批評について真剣に考えてみようという人に向けて

最近は批評論が流行っている、と書いたらちょっと嘘。かつての理論・反理論の対立のような、熱のある(陰湿ともいう)議論というものはあまり見られなくなったようにも感じられます。けれど、それはもちろん理論が必要とされなくなったことを意味しているわけではありません。
理論はありふれたものであり、理論に基づいて議論が行われることは自明のこととなった。そのように言っても差し支えないでしょう。それ自体は喜ばしいことですが、同時に理論がシステム化され、本来持っていた社会性が骨抜きにされていることにも、注意する必要があります。
何を頼りに、何を根拠にしてアニメを論じるのか。これまでに考えてきたことをアウトプットするには今が一番良い時期であるのかもしれません。
批評飽きた←こんな意見も出ている時分ですしね。
言うまでもないことですが、以下の内容は自分を棚に上げまくって書いています。長いと感じたら、項目ごとに、つまみ食いするように読んでいただいても問題ありません。


1.何を書くのか

・・・空いた時間で考えろ。
「なにを、ですか?」
そうだ!なにを考えるべきか、から考えるのだ。
つまらない作業はそのあとでやればいい。
まず机の上を完全に空にせよ。なにも置くな。

想像力の欠落が大惨事を招く | 日経 xTECH(クロステック)

作品について語るには2つの方法があります。ひとつは作品を見た印象を語ること。もうひとつは、ある問題意識に基づいて作品を解剖し、自分の言葉で組み立てなおすこと。
どのように書くかは自由だ、というのは真理ですが、少なくとも僕は前者を薦めたくはありません。印象ってステレオタイプなんですよね、本人が自覚している以上に。「『Kanon』は泣きゲーだ」なんて今更書く必要はないし、結果として作品への見方を狭めることにもなるでしょう。
それを踏まえた上で、では何を書こうかと考えることになります。その過程においては、歴史や技術、他のジャンルとの比較も射程に入れる必要が出てくるかもしれません。ただ、こうした努力は作品固有の探求へと送り返されてこそ意味があるということだけは認識しておくべきでしょう。重要なのは「なぜその理論を適用するのか、なぜそれと比較するのか」という問いであり、それを欠いた批評は単なる「共通点探しゲーム」に留まっていることがほとんどです。


2.誰に向けて書くのか

結論からいうと、たぶん批評は死ぬでしょう。テリー・イーグルトンが『批評の機能』に縷々記したとおり、批評とはあらかじめ死ぬことを宿命づけられた営為だから。いま「批評」と呼ばれているものは、いくたびも死に損なっているゾンビであり、集合知(愚)によって懲りずに何度目かの死に追いやられつつあるのだ。はるか以前から「いま批評は可能か」「批評は死んだか」みたいな議論が飽きずに反復されてきたけれど(本誌も何年か前にやってましたが)、このたびはウェブ2・0と呼ばれる“一億総批評家”世界が現出したことで「死」のヴァージョンがちょっと上がったわけですね。

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20070403#1175529758

難解な専門用語を駆使した結果、的確ではあるけれど一般人にはとても読めないような批評が出来上がる。「批評」にこだわる人にこそ見られるパターンです。それに比べれば「好き」「嫌い」だけの方がよほどわかりやすいというわけで、「批評の死」を招いた原因は偉い批評家の先生方にあるといっても過言ではないでしょう。
まず、批評が一種の読み物であるという当たり前のことを意識する必要があります。その上で、自分がなぜそう思ったのかを丁寧に書いていくこと。そんな当たり前の姿勢を取り戻すことが必要なのです。すべての批評家、レビュアにとって。
あと、監督や脚本家など作品の作り手も当然読者として想定されるでしょう。しかし、これはあまり一般的ではない考えかもしれませんが、作り手が批評を読んでどう反応するかは、批評家にとってあまり関係ありません。これは僕が「作り手」と「受け手」の間には「意識と無意識」「意図と偶然」「ビジネスと娯楽」という深い断絶が存在し、その断絶を記述することが批評の役割であると考えているため。
まあ、作り手のために批評を書いている人もいるわけで、人それぞれではありますが。


3.作品へのアプローチ

「批評はそれゆえ下生えを行くことができる。半ば見えているだけの足跡を追って、作品の下層へと分け入ることができる―そこに湧出と明るみの場所を見つけ出すために。批評は地下の道行きを好むのである」
ジャン=ピエール・リシャール『マラルメ』より

批評を行う際には、あきらかにそれとわかる「作品のテーマ」からちょっと距離を置くことが必要になるでしょう。例えば少し前まで『まなびストレート』なんて作品が話題になっていましたが、作中で繰り返し主張される「理想の学園生活とは〜」みたいな話は、ぶっちゃけて言えばどうでも良いことだと思う。「僕にとっては」ですけどね。
むしろ作品にとって些細なことをテーマとして設定する方が、作品へのアプローチとして有効な手段であると言えるでしょう。「『らき☆すた』における食事」とか「『sola』と天気」とか。これは何も、細部への無償の耽溺を勧めているわけではありません。
言うまでもないことですが、作者と作品の関係は決してイコールで結べるようなものではなく、作品は作者以外のさまざまな外的要因による影響を受けています。そのため作品を「作者の意識と外部との出会いの場」として捉え直すことが必要になるでしょう。作品の細部に注目することはそのための有効な手段となるのです。
食事にしろ天気にしろ、作品外の論理によって成り立っているものを作者がいかに描くのか。それを通して作品を貫く方法論らしきものが見えてくるのかもしれません。


4.相対主義という落とし穴

相対主義を強く標傍しておきながら、自分自身がよって立つ基盤については全く無批判な人。相対主義を強く標傍する人は、他人から見ると、あらゆる物事を一望のもとに見渡した上で、あらゆる考え方は相対的である、と言っているように見える場合が多いものです。表面的には相対主義の平等主義者のように振舞いながら、裏では自分だけが特権的な立場に立っているとみなしているような奴は、嫌われても仕方ありません。

相対主義に関するよくある質問

前にも書いたなぁ、と思いつつ、重要だと思うのでもう一回書きます。
僕は、ある作品に対して他人が下した評価を「まあ、好みは人それぞれですからね」と相対化してしまうのは全く無意味である思います。絶対的な評価は存在しない、それは確かに真理ですが、イデオロギィとしても現状認識の手段としても、何の役にも立たないことは認識しておくべきでしょう。
意味があるとすれば、それは自分自身の「自然な」読みを問い直すことにあります。「古典」として評価が固まっているものを、別の視点から読み解いていくこと。相対主義は常に自身へと向けられるべきものなのです。
似たような話ですが、「リベラル」というのも結構な悪口だったりします。社会から切り離された人間や公平無私な人間なんているわけないだろう、みたいな。大切なのは、自分が何者なのか、どのような好みや偏見を持っているのかを自覚し、正直に書いていくことです。


5.理論の応用

文学理論はかくして文学を周辺と接続し、文学の再起動に大きく貢献することだろう。またそのなかで文学系あるいは文化研究分野における批評理論の効用と適用可能性があらためて見直されることだろう。そのためにも批評理論を文学研究の技巧のひとつとして制度化しパッケージ化してはならない。
大橋洋一『現代批評理論の全て』より

作品が特定の社会的背景によって生み出される以上、「作品そのもの」を批評することは不可能だと言えるでしょう。そこで、作品が所属するジャンルの歴史や、あるいはフェミニズム精神分析学、社会学記号論などの理論を応用して作品を分析していくことになります。
しかし、その前に立ち止まって考えてほしいことが1つ。それは「なぜその理論を適用させるのか」ということ。仮に『コードギアス』をフェミニズムの観点から批評するとしましょう。そこで必要になるのは、なぜアニメというジャンルの、『コードギアス』という作品が、フェミニズムによって分析することが可能なのかという問題意識です。それを欠いた批評は、文学や演劇などにも応用可能な理論を「たまたま」応用しただけというやっつけ仕事になることでしょう。
作品それ自体への問いがない作品論はつまらない。ではいかにして理論を作品へと送り返すのか。その問い自体が、批評を行う者にとって必要となるのではないでしょうか。


6.最後に
あまり賛同は得られないかもしれませんが、僕は批評を「水物」だと思っています。作品を生み出した社会も、受け手も刻々と変化していく、流動的なものでしかありません。だからこそ批評は「今」を生きなければならない、と。どこかで聞いたような台詞ですが。
今、どこのアニメ雑誌を見てもページの大半は作り手の言葉で埋まっており、批評のスペースはほとんどありません。批評家の変な解釈よりは監督の言葉の方がよほど頼りになるというわけで、それはそれで仕方がない。ですが、先述したとおり批評とは作り手と受け手の間にある断層の中で生きるものであり、批評家までが作り手の言葉に流されるようでは存在意義がない、ということにもなりかねません。
だからこそ批評家に求められるのは、「今」批評を必要とする人に届けるため、文章や解釈自体を読み物として高めていく努力であると思います。好き嫌いだけのわかりやすい感想と比べれば、ずっと不利な地点からのスタートなんだから、尚更のこと。自戒の意味を込めて。


追記アニメの「作者」って誰のこと? - tukinohaの絶対ブログ領域


参考
アニメ・ゲームなどの批評に関する根本的な誤解 - 萌え理論ブログ
藤津亮太の「只今徐行運転中」:アニメを語ること1(「駄作」について) - livedoor Blog(ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20070307/1173282568
作者の意図を見る理由 - 魔王14歳の幸福な電波