「そんなに言うならお前がやれ」はいつの時代も共通です

Something Orangeを見ていて思ったのですが、実際に何かの活動に携わっている人が、理論を提供する人に向ける冷ややかな視線はどこの国でも同じなようです。


『「である」ことと「する」こと』という丸山眞男の評論があるのですが、おそらくそこから引っ張ってきたのであろう「権利の上に眠るもの」というフレーズが、高校の教科書に書かれていたエッセイで引用されていました。
そのエッセイでは、時効という制度について「犯罪を犯しても、逃げ回っていれば無罪になる。一見不公平な制度だけれども、これには「捕まえて罰を与えることが出来る、という権利の上に眠っていると、気がついたら権利者ではなくなっているぞ」という警告の意味が含まれている」と書かれていました。常に権利を確認する、行使することの重要性を、私はこのエッセイを通して知りました。
そんなわけで、実際に動物愛護に携わっている人を「偽善だ」と非難する人は「権利の上に眠っている」と言われても仕方ありません。
しかし、問題はここからです。
では、行動することだけが大事で、署名活動をしたり、政治家になったりせず、ブログで自分の考えを書くだけの人間は権利を奪われても仕方が無いのでしょうか?
私はそうは思いません。
吉本隆明が『家族のゆくえ』という本の中で、埴谷雄高に言及してこんなことを書いています。

クモの巣のかかったような部屋に引きこもっていたって革命家は革命家なんだと、明言した。そこまで言い切った人はいない。世界中にひとりもいないといってよかった。社会主義政権をとっているところはたいてい後進国だ。『やる』ことが重要だと教えられている。埴谷さんは、クモの巣のかかった部屋でゴロゴロしていたって永久革命なんだと言い切った、考えることが大事なんだと断言した。そんなことをいったのは埴谷さんが世界で最初だとおもう。

自明の権利というのはたぶんなくて、それを守るために活動するのは、とても大切なことだと思います。しかし、実際に活動している人たちの中には、理論を提供するだけの人を軽視しがちです。この隙間風が、どうしようもないくらいに、寒い。
微妙にまとまらないので、最後に森博嗣の『すべてがFになる』から引用しておしまいにします。

僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ。