なんとなく最近某ゼミで報告した際のレジュメを編集して公開します(ほとんど勉強ノートですが)。
取り上げているのはフランスの現代思想家ジャン=リュック・ナンシーとイタリアの文芸評論家兼思想家のジョルジュ・アガンベン。共通点はドゥルーズの影響を強く受けていること、主体subjectの再定義によって「共通点をもった人々の集まり」と捉えられがちな共同体communityの再定義も可能になると考えていること、ですね。ナンシーはのちに心臓移植をうけて「身体」を議論の中心にもってくるようになるのですが、それでますます「むき出しの生」を論じるアガンベンとの距離が縮まっていきます。なので、このレジュメでも両者の違いは論じません。
なお、このレジュメでは結構肯定的に書いていますけど(理解することが目的なのでそうなってしまう)、私はこういう「存在論から言語や労働を解き明かす」というやり方に対しておおむね否定的です。彼らにとっては労働問題も存在論から派生してくるものとして捉えられるわけですが、私には逆だろうとしか思えないし、「言語とは」「労働とは」といった概念への問いが提起される場面とは具体的にどのようなものかを考える方がよほど有意義に感じられます。
でもまあ、とりあえず「現代思想における共同体論」の入門として、一応。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

Outline:バタイユハイデガーの読み直しを通して、「個人」や「主体」に還元されない人間の単独性=特異性Singularityのあり方を解き明かし、かつ、それとの関連において共同体Communityの概念を再定義する。


ノスタルジアとしての共同体
近代とは、一般的に、「共同体」が解体された時代として定義されている。このとき想定される「共同体」とは、「ある同一性identityが複数性pluralityのうちに分有され伝播diuuysionされ、浸潤impregnationされることによって作られるのであり、その複数性を形成する各成員はまさにそれゆえに、共同体の生きた身体living body of communityとの同一化identificationという付加的な媒介によってはじめて自己同一化を遂げることになる」(1)ような共同体である。
しかし、このような共同体がかつて存在したわけではない。「実際その歴史のどの時点をとっても、西洋はいつもより古い消滅した共同体への郷愁nostalgiaに浸って」いた(2)。他方、「個人がその本来の規定からして――その名が示しているように、それは原子atomであり、分割しえないindivisibleものである――ある分解作用〔dissolution of community〕の抽出結果として生じたものだということは明らかである」(3)。つまり、「個人」は「他者」や「共同体」を必要とせず、それ自体で完結する主体として定義される。ナンシーはこのような「人間の人間に対する内在immanence of man to man、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間considered as the immanent beingこそが、共同体の思考にとっての躓きの石stumbling blockとなっている」と考える(4)。


・死と共同体
ナンシーはハイデガーによる死の分析を援用し、まず、私にとって最も固有のものである「私の死」について「私は死んだ」と語れない以上、私がそれ自体として完結した主体ではないと述べる。問題は「他者の死」についてである。ナンシーは『存在と時間』から次の文章を引用する。

われわれは本来的な意味authentic senceで他者の死を体験しはしない。いつもせいぜいのところ「立ち会って」there alongsideいるだけである。[…]死は、それが「存在する」限りでは本質的につねに私のものなのである。(5)

ナンシーが分割=分有sharingとしての共同体が現れる契機を見出すのは、まさにこの不可能性においてである。「死の営みをなすことの不可能性impossibility of making a work of deathが「共同体」として刻み込まれ、担われるのである」(6)。

つまり私は、他人の死のうちに再認recognizeしうるものはなにもない、ということを再認しているのだ。このようにしてはじめて分有sharing――そして有限性finitudeが刻まれるのである。「死に含まれている終わるということthe ending implied in deathは、現存在Daseinが〈終わりにあることBeing at an end〉を意味するのではなく、この存在者の〈終わりへと関わる存在Being-toward-the-end〉を意味している」。似た者like-beingのもつ類似は、「終わりへと関わる存在」たちの出会いから生まれるが、この終わり、彼らの終わり、そのつど「私のものtheir end」(あるいは君のものmine end)であるこの終わりが、彼らを同じ一つの限界によって近似させると同時に分離するassimilates and separates in the same limit。その限界に対してあるいはその限界のうえに、彼らは共‐出現compearするのである。(7)

つまり、他者の死に立ち会うという経験は、死んでいく人(他者)の有限性finitudeを示すと同時に、死んでいく人に同一化identificationすることのできない私の有限性を示している。この意味で、私と他者は「似ている」。

分有とは次のような事態に対応している、すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示presentingすることによって、自我の外にある私の実存existence outside myselfを開示するのだ。……共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだCommunity itself,in sum,is nothing but this exposition。(8)

・特異性singularityと共同体
ドゥルーズにおいて特異性とは、前‐個体的な場(潜在性=潜勢力potentiality)から諸々の存在者がどのように個体化individuationされるのか、という文脈において用いられる。このとき前‐個体的な場は、AとBの差異、AとCの差異、といった、相互関係によってのみ意味をもつ内容によって規定されている。このような場において個体化が生じるポイントを特異性(特異点)と呼ぶのだが(9)、ナンシーの用いる「特異性」もこれとほとんど同じである。

特異性の背後には何もない――しかし、その内におけるその外にoutside it and in it、それを特異性として配置し分有するdistribute it and shares it out as singularity非物質的かつ物質的な空間が、ほかの特異性たちとの境界、あるいはより正確には特異性なるものの境界confines of singularity、つまり他性alterityの境界が、特異性と特異性それ自身との間にある。(10)

ナンシーにとっても、特異性はほかの特異性との差異、共‐出現compearしている他者との差異を含意しており、それ以外の何か(「私」に固有originalの性質)を含意しない。

特異存在は、諸存在の混沌とした未分化な同一性undifferentiated identity of beingという背景、諸存在の一方向的な背景という基底background of their unitary assumption……そこから生い立つものでもない。それは有限性finitudeそのものとして出現するのだ――最後に(あるいは最初に)その同じ特異性の境界で、他の一つの特異存在と皮膚を(あるいは心を)触れ合うことによって。その特異性はそのようなものとして、つねに他なるものであり、つねに分有され露呈exposedされている。(11)

しかし、私と共‐出現するという「他者」とは、どのような存在なのだろうか?
1.「私は死んだ」とは言えないということが共‐出現を示すのだとすれば(つまり、誰かによって語られることがその条件だとすれば)、「彼は死んだ」と語られることのない他者とは共‐出現していないことになるのではないか。
2.ナンシーにおける共‐出現が時間的な同時性を含意しているのなら、遅れて現れるような他者の存在が抜け落ちてしまわないか?

この空間化は時間それ自体を空間化し、時間の連続的現在から時間を空間化する。…/時間が自らの空間化を通して、われわれに、「われわれ」として存在する可能性を与えるのであり、あるいは少なくとも、「われわれ」とか「われわれの」と述べる可能性を与えるのだ。「われわれ」と述べるには、われわれが共通の時間というある種の空間のうちに存在していなければならない。(12)

この「共通の時間」=歴史は、どのようにして「われわれ」の境界線を引こうとしているのだろうか(それとも境界線など存在しないと考えているのだろうか)?

(1) ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』1999年第3版(西谷修安原伸一郎、以文社、2001年、19−20頁)。
(2)同上、20頁。
(3)同上、8−9頁。
(4)同上、7頁。
(5)同上、60頁。
(6)同上、28頁。
(7)同上、60−61頁。
(8)同上、49頁。
(9)ドゥルーズ『意味の論理学』186−193頁。ようするに前‐個体的な場ではデカルト座標(Cartesian Coordinates)のような数値化された位置は存在しない。
(10)ナンシー『無為の共同体』50−51頁。
(11)あれ、どこだっけ?
(12)同上、198−199頁。

ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

Outline:アウシュヴィッツにおける「回教徒」muslimの分析を通して、人間が主体として現れるとき、その中に「むき出しの生」bare lifeを含んだ形で現れるという主体の構造を明らかにする。また、そのような主体との関連において、言語や共同体を再定義する。


・むき出しの生bare lifeと恥ずかしさShamefulness
アガンベンによると、古代ギリシアにおいて生lifeを表現する言葉は二つあったという。ひとつは公共的pubilicな生を表現するbios、もうひとつは「生きている」という単なる事実mere factを表現するzoeである。政治学においてこれまで重視されてきたのはbiosであるが、共同体が成立する際、ホモ・サケルHomo sacerとしてzoeが共同体秩序の「例外」exceptionとして位置づけられたことにアガンベンは注目する。
アガンベンにとって近代とは、zoeとしての「むき出しの生」bare lifeという「例外」が、共同体をめぐる思考の中心に現れる時代であり、アウシュヴィッツのような強制収容所concentration campはその象徴的事例である。

例外空間としての収容所の逆説的な立場について考察しなければならない。それは、通常の法的秩序の外に置かれた領土の一片であるが、たんに外部の空間のなのでもない。収容所に排除されているものは、例外という語の語源的な意味(つまりex-capere)に従えば、外に捉えられている。つまり、自らの排除そのものを通じて包含されている。(1)

アウシュヴィッツについての考察は主に、隠語slangで「回教徒」muslimと呼ばれた人々についての分析によって進められる。「回教徒」とは、自力で語ることのできない「むき出しの生」bare lifeとして生きているため、アウシュヴィッツについての証言testimonyから必然的に欠落してしまう人々である。しかしアガンベンは、この「回教徒」の存在が、「種〔human being〕に帰属しているという究極の感情」を示しているという(2)。この感情が「恥ずかしさ」として現れることを、アガンベンは「il y a」(there is〜)をテーマとした初期レヴィナスの分析を通して論証していく。

レヴィナスの分析をさらに進めてみよう。恥じることが意味するのは、次のことである。すなわち、引き受けることのできないもののもとに引き渡されることである。しかし、この引き受けることのできないものは、外部にあるものではなく、まさに私たちの内密性……(たとえば私たちの生理学的Physiologicalな生そのもの)である。すなわち、ここでは、自我は、それ自身の受動性passivityによって、それのもっとも固有な感受性によって凌駕され、乗り越えられる。しかし、自分のものではなくなり、脱主体化されたこの存在は、自己自身のもとへの自我の極端で執拗な現前でもある。…すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。主体化にして脱主体化という、この二種の運動が、恥ずかしさである。(3)

つまり「恥」とは、私が語ることの内に「むき出しの生」bare lifeという、語りえないにも関わらず語らずにはいられないものが含まれていることの証明である。この発想は、ジュリア・クリステヴァの「おぞましいもの」abjectionという概念と共通する点が多い。人間はabjectionを自己から排除することによって主体を確立するが、そうするのは一方でabjectionが魅惑的であるためでもある(4)。

人間が生起するtake placeのは、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非‐人間と人間のあいだの断絶においてであるからである。すなわち、人間は人間の非‐場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉のあいだの不在の結合において生起するtake placeのである。(5)


・潜勢力potentiality
アリストテレスの解釈を通してアガンベンは、「〜する」to doと「〜することができない」be not able to doの間に、「〜しないことができる」be able not to doという状態に注目する。アガンベンによると、この「〜しないことができる」という潜勢力potentialityが存在しなければ、「〜する」こと(現勢力actuality)も存在できない、という。

じっさいにも、動物たちは言語活動が欠如しているわけではない。逆に、動物たちはつねに絶対的に言語である。動物たちにおいては、「純真無垢な大地の神聖な声」……は中断も分裂も知らない。……これにたいして、人間は、幼年期infancy〔言語活動をもたない状態〕をもっているために、つねにすでに語る存在ではないために、この単一の言語を〔ラングとパロールに〕分割する。(6)

ラングとパロールのあいだの分裂もなければ、言語の歴史家になることもないだろう。しかし、そのような人間は、まさにそのことのために、直接その本性に結びついているだろう。つねにすでに自然であって、このことのうちには、いかなる方面からも、歴史のようなものが生み出されうる不連続や差異を見出すことはないだろう。……歴史は語る存在としての人類の直線的時間にそった不断の進歩ではなく、その本質において、間隙であり、不連続であり、エポケーなのだ。(7)

では、人間が言葉を話すことは、潜勢力を失うことなのか。そうではない。

存在しないことができるという潜勢力は単に取り消されるのであってはならない。存在しないことができるという潜勢力は、それ自体へと向きなおり、存在しないのではないことができるnot“be able not to do”という形を引き受けるのでなければならないだろう。(8)

言葉を話すことのなかに、言葉でないもの(非‐言語)が含まれている。アガンベンバンヴェニストの言語論に依拠しながら、以下のように述べる。

「わたし」、「あなた」、「いま」、「ここ」といったシフター〔陳述指示語〕の意味のようなものを定義することはたしかに可能であるが……その意味は言語活動のほかの記号になら通用する辞書的な意味とはまったく別のものである。わたしは観念でも実体でもない。言述行為において言表がかかわるのは、そこで語られることがらではなく、それが語られているという純粋な事実である。(9)

じっさい、〈わたしは話す〉という言表を本当にまじめに受け取るということは、もはや言語活動をそれの所有主にして責任者である主体による意味の伝達や真理の伝達と考えないことを意味する。(10)


(1)ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』1996年(高桑和巳訳、以文社、2000年、45頁)
(2)ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』1998年(上村忠男・広石正和訳、月曜社、2001年、90頁)。
(3)同上、141−142頁。
(4)ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』1980年(枝川昌雄訳、法政大学出版局1984年)。
(5)アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』183頁。
(6)ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』1978年(上村忠男訳、岩波書店、2006年、91頁)。
(7)同上、93頁
(8)ジョルジョ・アガンベン「思考の潜勢力」1987年(『思考の潜勢力』所収、高桑和巳訳、月曜社、2009年、348頁)
(9)アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』186頁
(10)同上、190頁

至高性sovereignty・主権severeignty・マルチチュード

バタイユは未完の著作『至高性』において、至高性の体験を現在におけるエネルギーの無限定な消費と定義し、ヨーロッパではフランス革命の辞典まで、王の至高性に同一化することで間接的に民衆も至高性を体験していたと述べる。ここでは至高性と主権が限りなく接近しているが、バタイユは両者を切り離そうとする。「至高性は何ものでもない」(1)
ナンシーはバタイユの考えを、「分有」概念を導入することでさらに推し進めようと試みる。

つまり彼〔バタイユ〕が断念したのは、共同体を思考すること、そして共同体の分有を、そして分有のうちにある至高性sovereignty、あるいは分有された至高性、またいくつかの現存在の間で、主体ではない特異な実存たちの間で分有された至高性を思考することである。……その場はおのれの脱‐臼[位置取りを外すこと]dis-locationを通して規定され露呈されている。したがって、分有のコミュニケーションとは、この脱‐臼そのもののことであるだろう。(2)

このような「共同体の分有」は、例えば「国家主権」に対して「帝国」と「マルチチュード」を対置したネグリ&ハートの考えと同一視できるのだろうか?
確かに、アガンベンも「潜勢力」potentialityに対応した政治主体として、多数者multitudeを挙げている(3)

つまりその政治は、単に絶対的に人間の理性の働きを出発点として規定されるのではなく、自らが存在しないという可能性、自体的無為の可能性を露呈し、そのような可能性をそれ自体の内に含んでいるような働きを出発点として規定されている。……その政治とは、あらゆる個々の共同体を超過し、その超過に対応する統制的根拠としての君主制や帝国といった共同体をも超過する政治である。自体的な本質的無為の自覚から、思考はこれ以外にどのような帰結を抽き出すことができるだろうか? (4)

とはいえ、ナンシーやアガンベンにおいては、人々がその有限性において「結び付けられると同時に切り離される」」という共同体の非完結性が強調されている点において、脱領土的なマルチチュードが新たな秩序を作り出す際の「構成的権力」は主権という枠組みから自由になりうるというネグリの楽観性とは対立するところがあるように思われる。ある秩序を作り出す潜勢力(〜しないでいること)は、その秩序が形成されたあとにも消えることはない。「構成された権力において構成する権力が保存される」のである(5)。

(1)ナンシー『無為の共同体』34頁。
(2)同上、45−46頁。
(3)ジョルジョ・アガンベン「人間の働き」2005年(『思考の潜勢力』、438−439頁)
(4)同上、58−459頁
(5)アガンベン「思考の潜勢力」350頁。発想の元になっているのは、もちろんベンヤミン『暴力批判論』である。
あと参考文献として

アガンベン入門

アガンベン入門

現代思想2006年6月号 特集=アガンベン 剥き出しの生

現代思想2006年6月号 特集=アガンベン 剥き出しの生

ドゥルーズについては以下が手頃。
ドゥルーズ キーワード89

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