片山杜秀『近代日本の右翼思想』

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

日露戦争後から第二次大戦までの右翼思想を包括的に扱おうと試みた、意欲的な一冊。あまりに包括的すぎるため、頁が進むにつれて無理が目立つようになるが、無思想・大衆迎合的と見做される傾向の強い蓑田胸喜や三井甲之といった「原理日本社」の連中をきちんと思想史の中に位置づけたことは大いに評価されるべきだろう。もっとも、蓑田が無思想だと思われてきたのは、滝川事件において滝川教授を私怨によって批判したと思われる節があるためで、同情には値しないだろうが……
内容を要約すると以下のようになる。著者の言う右翼とは、すなわち「失われた過去に立脚して現在に異議を申し立てる」ものであり、日露戦争後の社会不安の増大を背景にして社会に影響力を広げていった。そして、彼らにとって「失われた過去」を代表するのは、「農業の司祭」であり、記紀神話を体現する「現人神」としての天皇である。ゆえに、彼らの試みる「現在への異議申し立て」は天皇を前面に押し立てることになる。
しかしその一方で、天皇は明治国家の元首という「現在」の象徴でもある。この矛盾によって右翼は前へも後ろへも進めなくなり、現在と過去の混同が起こる。無理に折衷するならば、現在は「不純な過去」であると言えるだろう。
「昔はよかった。天皇がいて」⇒「今も天皇がいるよ」⇒「では、今も良いのだろう」⇒「しかし、今は天皇のありがたさが感じられない。なぜ?」⇒「それを覆い隠す『君側の奸』がいるからだ」
こういった思考様式に基づいて、ほとんど無限否定の様相さえ帯びる原理日本社の著名人批判が行われたのだ、と著者は考える。もうひとつ重要なのは、過去を天皇によって象徴させているために、変革後のイメージもまた天皇によって制限されるのだということである。天皇が農業の司祭である以上、どうしても農本主義的な変革像しか浮かんでこない。
以上の内容を著者は「中今」というキーワードで要約している。歴史的なものを全て備えた天皇が現在において存在する以上、過去との比較で現在を相対化するような態度はナンセンスなものとなり、歴史学的な発想は失われる。このような非歴史主義的思想を著者は全部まとめて「中今」で括る。そのため、あきらかに右翼的とは言いがたい人物まで論述の対象とされる。それ自体は決して悪くはないが、彼らの「中今」に対する関り方はそれぞれ異なるということをもう少し考慮にいれるべきだろう。例えば「中今」を正面から取り上げた『国体の本義』と、それを批判するためにあえて「中今」に言及した西田幾多郎を同じように扱っているところがあって、無理があると感じる。
もうひとつ、「中今」思想が右翼思想の本流であったような書き方をしているのも問題である。平泉澄はどうか、大川周明はどうか。最も「中今」に適合するのは蓑田胸喜だが、彼をもって右翼の本流とするのも違和感を感じる。著者が主張するよりも、「中今」の影響力は限定的なものであったと見做すほうが自然だろう。あるいはそれを知っていたからこそ、一般に右翼とは考えられていない人々も考察の対象に入れざるを得なかったのか。
とはいえ、最初に書いたとおり「原理日本社」のような批判者に徹する右翼を扱う上で、この「中今」の概念は非常に有効であると思う。例えば昭和期の青年将校。テロと暗殺を行った彼らに共通するメンタリティは、自身を「捨石」であると位置づけることで、具体的な将来像の提示を放棄したことにあった。重臣や政党、財閥を排除し、天皇親政さえ行えば日本は良くなるのだと考えるに至った理由は、案外この辺にあるのかもしれない。

栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』1995.12

この世に「正しい戦争」というものは存在しないが、だからといって全ての戦争が等しく悲惨で救いがないというわけではない。正しくはないが避けられない戦争というものがあり、また、戦争によって人々が多少はマシな状態になることがあるのも確かだ。戦争がある世界を前提としつつ「よりマシな戦争」を目指す、というのも平和を考えるひとつのあり方であると言えるだろう。
とはいえ、戦争というのが「非常手段」であり、それが「止むを得ず」行われるものであることに変わりはない。例えば石原莞爾のように、戦争が国際問題だけでなく国内問題の解決にとっても優れた手段であると考える人物は少なくないが、それが国家の公式見解として国民に伝えられることはほとんどない。いかに好戦的な国家であっても、戦争を外交よりも優れた手段であると表立って表明するのではなく、戦争は「次善の策」として位置づけられる。
そのため、国民に対して戦争が行われる必然性を説明しようとすれば、外交による解決が既に不可能となった「非常時」であることを強調しなければならない。「非常時」であるから「非常手段」を取ることが許されるのである。当たり前のことを言っているようだが、実際は別の手段を取ることが可能であっても「非常手段」を取りたい人間にとって「非常時」という言葉は不可欠なものであるし、「非常手段」を批判する人間にとっても主要な論点となるだろう。「あなたは非常手段を取らなくてはいけないと言ってるけど、今は本当に非常時なの?」という風に。
これは何も戦争に限った話ではない。会社が社員をリストラするとき、政府が増税したいとき、憎い相手を殺したくなったとき、色々な状況で「非常時」が捏造される。我々がその強権に立ち向かうためには、まずはその「非常時」を冷静に分析し、妥当性を問うことが必要になる。
前置きが長くなったが、今回紹介する『「大東亜共栄圏」の思想』は上のような問題を考えるうえで少なからず有益な本である。

「大東亜共栄圏」の思想 (講談社現代新書)

「大東亜共栄圏」の思想 (講談社現代新書)

まずは章立てを紹介しよう。

プロローグ
序章 対外膨張主義の源流
第一章 「非常時」の社会的風潮
第二章 非常時対策と風紀頽廃
第三章 太平洋戦争初期の指導者の思想
第四章 官僚の思想
第五章 知識人と思想戦
第六章 日中・太平洋戦争下の教員
エピローグ

重要かつ読み応えのあるのが第一・二章。それ以外の章は、残念ながら一般的な見解を述べているだけであったり論拠が薄弱であったりと、知的刺激を受けるところは少ない。「大東亜共栄圏論」としてもいかがなものだろうか。例えば「八紘一宇」を論じても田中智学の名前が現れないという風に、端折りすぎの印象を受ける。
ただ、第一・二章の「非常時」論については一読する価値があると思う。「戦争とファシズムの時代を可能にした社会的要因の一つは、非常時の社会的風潮の登場だったように思われる。」という前提から出発する筆者の議論は、学者や政治家、社会主義者、ジャーナリストといった幅広い人々を視野に納めており、筆者の言葉を借りれば「非常時メーカー」とそれに反対する人々との対抗関係を一覧する上で役に立つ。
しかし、「非常時の風潮に対する批判」という一節を設けながら、その中で挙げられた批判が全て「非常手段」への批判であるというのはどういうことか。石橋湛山の「小日本主義」のようなものこそが、最も典型的な「非常時の風潮に対する批判」だと思うのだが、そちらへの言及はない。さらに言えば、「大東亜共栄圏」の中で想定された国家関係が平等なものではなく上下関係を前提としたものであり、それが指導者層における国際政治のパワー・ポリティクス観に由来するものである、という考察は正しいとしても、そこからさらに踏み込んだ話をしてほしかった。国際法や国家間の平等を信用せず、国際関係は畢竟武力によって左右されるという概念は木戸や岩倉といった明治の元勲の間にも広く見ることが出来る。そして、それが江戸時代以来の「小中華思想」の反映だとしても、本家の中華思想とは異なり、羈縻の概念(徳を媒介とした間接統治)を有していないために、支配/被支配の関係がより直接的なものとして捉えられたのではないか、と私は考えている。
ついでに疑問点も挙げておくと、ヒトラーナチスドイツを模範として近衛新体制が作られたという風に書かれているが、日本においてナチスを作れば、それは「幕府」になってしまうとして忌避されたのも事実である。当時の国家指導者たち、あるいは内務省の官僚たちがヒトラーナチスをどのように見ていたのか、というのも興味深い問題であると言えるだろう。
以上、いくつか疑問点を挙げながら本書の内容を見てきたが、細かい問題点はまだまだあるにしても(あと5箇所くらい)、着眼点は非常に面白いと思った。特に薦めはしないが、興味があれば読んでみるのもいいだろう。

萱野稔人『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

整合性のとれた美しい論理で書かれた、これから国家を語る上で必読と言える一冊である。ただ、本書が秀逸な国家論であることは認めるとして、包括的かつ一貫性があるだけに、細かいところで色々論難したくなってしまう。まあ、そんなところを批判しても仕方ないんだろうな、と思いつつ。近年の国民国家論が国家の虚構性を強調するあまり、「国家が虚構である」と指摘すること自体を目的化する傾向にあるという指摘、そして国家には暴力という確かな実態があるという指摘、暴力を保持する国家とそれに従う国民という図式を解消するために、暴力の担い手を国民自身に求める国民国家と、暴力の目的を国民利益に求めるナショナリズムが生まれたとする指摘、これらはどれも正しいと思う。ただ、これらの議論の前提となる社会契約論批判については、なお検討の余地があるように感じた。本書のクリティカルポイントとなる問題なので、少し取り上げてみよう。
萱野氏は国家が住民相互の契約によって生じたとする社会契約論を批判するにあたり、国家が成立する前の自然状態について検討を行う。氏はホッブズの「自然状態」についての考えを引き合いに出し、自然状態においては仮に何らかの契約をしても、それが守られる保障がないことから、ゲーム理論的に言えば契約を破るという選択でナッシュ均衡となることを指摘する(囚人のジレンマ)。このような状態では、国家が契約によって作られたとする社会契約説は成り立たない。そこで萱野氏は契約に先立って国家が作られ、国家の強制力によってようやく契約が成り立つようになったと考える。では、契約に先立つ国家がどのようにして作られたのか。これについて氏は以下のように述べてている。

たしかに暴力の組織化んは、そのメンバーのあいだの協同が必要となる。しかし前章でみたように、その協同はけっして信約(契約)という法学的な概念によってはとらえられない。ホッブズはその協同を「人々の力の合成」という概念でとらえた。それは権利の委譲という法学的な原理にもとづくのではなく、暴力を加工しながら集団化するような力学的な原理にもとづくのである。
 ‐本書113Pより‐

では如何にして力の合成は行われるのか。その当然とも思える疑問について、萱野氏は特に何も述べていない。また、萱野氏の考え方を採ると、国家は一気に作られるしかない。例えば最初は小さな自警団から始まって、それが権限を拡張して国家に近づいて行く、というストーリィを採る事ができない。それが論理的な帰結であるが、前提に立ち返るならば、萱野氏のようにホッブズ的な自然状態を前提にせず、ロックやヒュームの自然状態を前提に置くべきではないか、と思う。
例えば新しい農地が欲しいと思ったとき、ホッブズの自然状態では新しく開墾するよりも他人から奪ったほうが得である、という風に考えられる。それに対してロックの自然状態では、自分で開墾した方が良い。自身の財産を他人に侵害されないことは「自然権」であり、それを侵すものには所有者や共同体からの報復が待っているためである。これを裏返せば、他人の権利を侵さないこと、約束を守ることは自然の義務となる(誰に対しての義務かと言えば、神なんだけど)。
ロックやヒューム的自然状態を採用するメリットはふたつ。ひとつは、萱野氏が言うように「契約に先立つ国家」が存在することを認めるとしても、それとは別に、ある程度の規模までは国家という暴力機構なしに共同体が維持されるという、複線的な発展コースを描くことが可能になるということ(ある時点において前者が後者を飲み込むだろうが)。これについては既にkihamuが詳しく述べている。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20061221/1166691154
もうひとつのメリットは、自然状態の人間にもある程度の社会性を認めることで、国家設立の意義をより明確にすることが出来る、という点である。つまり、国家権力が完璧な監視能力と中立・公正性を持つという(ありえない)前提を国民が共有していない限り、脱法・裏切りが支配的戦略になる可能性は否定できないだろう。社会契約説の意義というのは、萱野氏が言うように国家が本当は暴力によって作られたとしても、様々な法を「信約(契約)」として国民に押し付けることにあり、そのフィクションが機能するためには、そもそも信約は守らなくてはいけないという自然法の思想を受け入れざるを得ないのではないだろうか*1。萱野氏は社会契約説を王権神授説の代用品としか見ないわけだが、それはやはり、社会契約説を過小評価しすぎであると思う。
それと、国家と(近代における)私的所有の関係についても若干の疑問が残る。私的所有は常に「国家以外のものからは」侵されないという形で設定されたと萱野氏は述べているが、では国家それ自体は排他的所有権を有しているのだろうか?この場合私が想定しているのは、明治日本の「皇室財産」に関する論争で、排他的所有権を国家が有する皇室財産を設定することに対して、政府内部からもかなりの批判があったことについてである。国家は自らが所有しないことで、初めて国民の所有権を保障できているのではないだろうか……という考えについては容易に反論が思いつくので(国有地っていっぱいあるじゃん!)、法哲学を勉強して出直してきます、はい。

*1:ケルゼンの「根本規範」ですよね要は

安丸良夫『出口なお』

「出口なお」―女性教祖と救済思想 (洋泉社MC新書)

「出口なお」―女性教祖と救済思想 (洋泉社MC新書)

出口なお』は、安丸の最高傑作という人もあれば、あれはもう歴史学ではないという人もいる。自分は「歴史学の言葉で、歴史学のアドレスをずらす」ことが本書の目的であると考えているので、どちらの意見も間違ってはいないと思う。確かに歴史学の本というよりは、ルポルタージュに近い印象を受ける。理由のひとつは扱う史料。出口なおの書いた「筆先」と呼ばれる、書き殴られたメモ書き、教説を元に伝記を書いている。筆先は断片的な記述がほとんで、その隙間を安丸はかなり自由に想像している。それを歴史学からの逸脱、と考えることは可能。
ただ、それよりは書き言葉ではなく話し言葉で書かれた筆先を根本資料として用いたこと、それ自体が非常に重要な点であると思う。あまり意識しないけど、文献史学が扱うものの大半は書き言葉で書かれていて、話し言葉で書かれたものは公的でないものとして軽視されてきた、と言えるかもしれない。パロールとラングの二項対立というか、みんなパロールの方が真実を伝えていると思っているのに、「書かれたもの」として現れると、いかにもラングらしいものの方が真実味があると考える。
ところで「サバルタンは語ることが出来ない」という場合、「何を」語ることが出来ないのか。「全体性」についてである。自分が社会の中でどのような位置にいるのか、サバルタンは語ることが出来ない。書き言葉とは、文化史的にみて、その「全体性」の産物ではないか。書き言葉に真実味を感じるのも、解釈者である自分と相手が同じ全体性の中にいると思っているからではないか。
なおの「筆先」を一種の方言であると考えれば、よりわかりやすいかもしれない。方言、あるいは古めかしい言葉遣いで書かれた資料を、歴史学者は現代語に翻訳して利用するが、ルポルタージュでは方言を方言として引用するものが少なくない。そもそも方言とは何かと言えば、それは標準語の対概念として生まれたものである以上、標準語とは何かを問うことによって答えとしなければならないだろう。我々が方言で、あるいは言外のニュアンスをたっぷり含ませた会話をする世界の外に見たことのない、しかし均質で親近感を覚える、他者性のない他者が住んでいる世界がある。そうした世界を前提として、はじめて標準語が生まれる。それはつまり、「全体性」の所産だ。それに対して方言を意図的に使うということは、「全体性」から疎外されたサバルタンを描く上でとても重要なことのように思える。
そう考えると、安丸が話し言葉(方言)を重視したのは、「全体性」を持たないサバルタン的人物を書くために取った必然的手段であると同時に、「全体性」によって覆われることのない、自身と相手の距離を前提としていたためではないだろうか。後の対談でも安丸は『出口なお』について、自分が「筆先」を出口なおと同じように理解していたわけではない、自分に出来ることは筆先の内容を、自分に理解できるように「置き換える」ことだけである、と述べている。
ただ、それでも『出口なお』は神憑りを通してなおが「全体性」を獲得し、サバルタンから脱するところに主眼が置かれているのを見逃してはいけない。だからこそ、なおの発言を「そのまま」引用したあとに「〜とあるので〜だと言えるだろう」という風に、彼女の発言を議論全体の文脈に位置づけられるのである。これが小説であれば、発言のあとに「これは〜を示している」なんて言葉は絶対に表れないし、ルポルタージュでも著者自身が当事者として現れるタイプの作品ではほとんど使われない。脱時間的な視点を持ち、かつ何かを論証することに主眼を置く歴史学的思考によって初めて可能になる文体なのである。

岡真理『記憶/物語』

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶とは本人が所有する(だけの)ものではなくて、フラッシュバックのように制御不能な、記憶そのものが主体になるようなものじゃないの?というのが本書の発想の根底にある。本人であったとしてもそれを正確に表現できるわけではないし、過去から自由になれるわけでもない(それこそフラッシュバックのように、辛い記憶が現在のものとして現れることもある)。また、暴力的な記憶(慰安婦体験など)の本質が「言葉で言い尽くせない」点にある以上、それを他者と分有することにはある種の不可能性が付きまとうことになる。
ところで著者が「共有」ではなく「分有」としたのは何故か。この「分有」概念について本書の中では十分な説明がされていないのだが、「共有」の均質性よりは各人の異なる解釈によって絶えず読み替えられる不確定性を重視した概念である。『研究する意味』収録の文章ではその意義がよりわかりやすく書かれているので、そちらから引用してみよう。

私が「分有」という言葉を使うのは、「共有」と言ってしまうと、すべてを同じように「共有」するかのような印象を与えるからです。(中略)相手と同じ立場に立つことはできない、相手が感じたように自分も感じることが決して出来ない情況のなかで――「筆舌に尽しがたい」「想像を絶する」といった表現が指し示しているのはそのような情況のはずです――、それdめおなお、相手の痛みや経験を自分の立場からできるかぎり想像すること、自分の立場から相手の痛みを分ち持つこと、それが「分有」です。「自分の立場から」ということに私がこだわるのは、そこには必ず、私には私の痛みが、たとえば「加害」の歴史性を書き込まれた私固有の痛みもあまたあるはずだからです。
―岡真理「世界の現実に批判的に介入する文学の<不/可能性>とは何か」『研究する意味』―

では、どうすれば我々は彼女たちの記憶を分有できるのか?そこに語り尽せないものがあるということ、そのような出来事そのものを提示するしかないだろう、というのが著者の考えである。そのため、戦争の死や大量虐殺を「〜のための死」として共有しようとをする文学作品や映画が批判の対象となる。アウシュビッツを体験した多くの者が語るように、あの場所では「人が無意味に死ぬ」という不条理が現実であった。それに対して「いかなる暴虐も魂の尊厳を奪えなかった」というストーリィを与えるのは、いったい誰のためなのか。それは、「理由のない死」によって私たちを不安にさせないためではないか。私たちがアウシュビッツの記憶を分有するためでは、決してない。そうであるならば、アウシュビッツを生き延びたものが「収容所で殺されたものに代わってよりよく生きる使命がある」と言うことも批判しなければならない。収容所で殺されたものたちは「使命」がないから死んだのか。そうではない。生き残ったことにも死んだことにも理由はないのだ。
理由のない死、理不尽な暴力の記憶をどうやって分有するのか?物語に回収してはいけない。可能性は物語から外れたところ、出来事それ自体が語るような領域にある、と著者は言う。例えば弾薬も底を突いた日本兵が、敵を驚かすために英語で「ヘル・ウィズ・ベーブ・ルース」と叫びながら突撃した話。これが「ヘル・ウィズ・ルーズベルト」なら不思議はなかった。けれど、何故か(おそらく日本兵にもわからない)「ベーブ・ルース」であることで、アメリカ兵の記憶の中で物語化されることなく残り続けた。
「共有」ではなく「分有」すること。共有したい願望をぐっとこらえて、各自のやり方で、自分自身の痕跡を刻みながら解釈すること。そのためのきっかけが、物語化されない記憶なのだろう。と、こんなところかな。