栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』1995.12

この世に「正しい戦争」というものは存在しないが、だからといって全ての戦争が等しく悲惨で救いがないというわけではない。正しくはないが避けられない戦争というものがあり、また、戦争によって人々が多少はマシな状態になることがあるのも確かだ。戦争がある世界を前提としつつ「よりマシな戦争」を目指す、というのも平和を考えるひとつのあり方であると言えるだろう。
とはいえ、戦争というのが「非常手段」であり、それが「止むを得ず」行われるものであることに変わりはない。例えば石原莞爾のように、戦争が国際問題だけでなく国内問題の解決にとっても優れた手段であると考える人物は少なくないが、それが国家の公式見解として国民に伝えられることはほとんどない。いかに好戦的な国家であっても、戦争を外交よりも優れた手段であると表立って表明するのではなく、戦争は「次善の策」として位置づけられる。
そのため、国民に対して戦争が行われる必然性を説明しようとすれば、外交による解決が既に不可能となった「非常時」であることを強調しなければならない。「非常時」であるから「非常手段」を取ることが許されるのである。当たり前のことを言っているようだが、実際は別の手段を取ることが可能であっても「非常手段」を取りたい人間にとって「非常時」という言葉は不可欠なものであるし、「非常手段」を批判する人間にとっても主要な論点となるだろう。「あなたは非常手段を取らなくてはいけないと言ってるけど、今は本当に非常時なの?」という風に。
これは何も戦争に限った話ではない。会社が社員をリストラするとき、政府が増税したいとき、憎い相手を殺したくなったとき、色々な状況で「非常時」が捏造される。我々がその強権に立ち向かうためには、まずはその「非常時」を冷静に分析し、妥当性を問うことが必要になる。
前置きが長くなったが、今回紹介する『「大東亜共栄圏」の思想』は上のような問題を考えるうえで少なからず有益な本である。

「大東亜共栄圏」の思想 (講談社現代新書)

「大東亜共栄圏」の思想 (講談社現代新書)

まずは章立てを紹介しよう。

プロローグ
序章 対外膨張主義の源流
第一章 「非常時」の社会的風潮
第二章 非常時対策と風紀頽廃
第三章 太平洋戦争初期の指導者の思想
第四章 官僚の思想
第五章 知識人と思想戦
第六章 日中・太平洋戦争下の教員
エピローグ

重要かつ読み応えのあるのが第一・二章。それ以外の章は、残念ながら一般的な見解を述べているだけであったり論拠が薄弱であったりと、知的刺激を受けるところは少ない。「大東亜共栄圏論」としてもいかがなものだろうか。例えば「八紘一宇」を論じても田中智学の名前が現れないという風に、端折りすぎの印象を受ける。
ただ、第一・二章の「非常時」論については一読する価値があると思う。「戦争とファシズムの時代を可能にした社会的要因の一つは、非常時の社会的風潮の登場だったように思われる。」という前提から出発する筆者の議論は、学者や政治家、社会主義者、ジャーナリストといった幅広い人々を視野に納めており、筆者の言葉を借りれば「非常時メーカー」とそれに反対する人々との対抗関係を一覧する上で役に立つ。
しかし、「非常時の風潮に対する批判」という一節を設けながら、その中で挙げられた批判が全て「非常手段」への批判であるというのはどういうことか。石橋湛山の「小日本主義」のようなものこそが、最も典型的な「非常時の風潮に対する批判」だと思うのだが、そちらへの言及はない。さらに言えば、「大東亜共栄圏」の中で想定された国家関係が平等なものではなく上下関係を前提としたものであり、それが指導者層における国際政治のパワー・ポリティクス観に由来するものである、という考察は正しいとしても、そこからさらに踏み込んだ話をしてほしかった。国際法や国家間の平等を信用せず、国際関係は畢竟武力によって左右されるという概念は木戸や岩倉といった明治の元勲の間にも広く見ることが出来る。そして、それが江戸時代以来の「小中華思想」の反映だとしても、本家の中華思想とは異なり、羈縻の概念(徳を媒介とした間接統治)を有していないために、支配/被支配の関係がより直接的なものとして捉えられたのではないか、と私は考えている。
ついでに疑問点も挙げておくと、ヒトラーナチスドイツを模範として近衛新体制が作られたという風に書かれているが、日本においてナチスを作れば、それは「幕府」になってしまうとして忌避されたのも事実である。当時の国家指導者たち、あるいは内務省の官僚たちがヒトラーナチスをどのように見ていたのか、というのも興味深い問題であると言えるだろう。
以上、いくつか疑問点を挙げながら本書の内容を見てきたが、細かい問題点はまだまだあるにしても(あと5箇所くらい)、着眼点は非常に面白いと思った。特に薦めはしないが、興味があれば読んでみるのもいいだろう。