萱野稔人『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

整合性のとれた美しい論理で書かれた、これから国家を語る上で必読と言える一冊である。ただ、本書が秀逸な国家論であることは認めるとして、包括的かつ一貫性があるだけに、細かいところで色々論難したくなってしまう。まあ、そんなところを批判しても仕方ないんだろうな、と思いつつ。近年の国民国家論が国家の虚構性を強調するあまり、「国家が虚構である」と指摘すること自体を目的化する傾向にあるという指摘、そして国家には暴力という確かな実態があるという指摘、暴力を保持する国家とそれに従う国民という図式を解消するために、暴力の担い手を国民自身に求める国民国家と、暴力の目的を国民利益に求めるナショナリズムが生まれたとする指摘、これらはどれも正しいと思う。ただ、これらの議論の前提となる社会契約論批判については、なお検討の余地があるように感じた。本書のクリティカルポイントとなる問題なので、少し取り上げてみよう。
萱野氏は国家が住民相互の契約によって生じたとする社会契約論を批判するにあたり、国家が成立する前の自然状態について検討を行う。氏はホッブズの「自然状態」についての考えを引き合いに出し、自然状態においては仮に何らかの契約をしても、それが守られる保障がないことから、ゲーム理論的に言えば契約を破るという選択でナッシュ均衡となることを指摘する(囚人のジレンマ)。このような状態では、国家が契約によって作られたとする社会契約説は成り立たない。そこで萱野氏は契約に先立って国家が作られ、国家の強制力によってようやく契約が成り立つようになったと考える。では、契約に先立つ国家がどのようにして作られたのか。これについて氏は以下のように述べてている。

たしかに暴力の組織化んは、そのメンバーのあいだの協同が必要となる。しかし前章でみたように、その協同はけっして信約(契約)という法学的な概念によってはとらえられない。ホッブズはその協同を「人々の力の合成」という概念でとらえた。それは権利の委譲という法学的な原理にもとづくのではなく、暴力を加工しながら集団化するような力学的な原理にもとづくのである。
 ‐本書113Pより‐

では如何にして力の合成は行われるのか。その当然とも思える疑問について、萱野氏は特に何も述べていない。また、萱野氏の考え方を採ると、国家は一気に作られるしかない。例えば最初は小さな自警団から始まって、それが権限を拡張して国家に近づいて行く、というストーリィを採る事ができない。それが論理的な帰結であるが、前提に立ち返るならば、萱野氏のようにホッブズ的な自然状態を前提にせず、ロックやヒュームの自然状態を前提に置くべきではないか、と思う。
例えば新しい農地が欲しいと思ったとき、ホッブズの自然状態では新しく開墾するよりも他人から奪ったほうが得である、という風に考えられる。それに対してロックの自然状態では、自分で開墾した方が良い。自身の財産を他人に侵害されないことは「自然権」であり、それを侵すものには所有者や共同体からの報復が待っているためである。これを裏返せば、他人の権利を侵さないこと、約束を守ることは自然の義務となる(誰に対しての義務かと言えば、神なんだけど)。
ロックやヒューム的自然状態を採用するメリットはふたつ。ひとつは、萱野氏が言うように「契約に先立つ国家」が存在することを認めるとしても、それとは別に、ある程度の規模までは国家という暴力機構なしに共同体が維持されるという、複線的な発展コースを描くことが可能になるということ(ある時点において前者が後者を飲み込むだろうが)。これについては既にkihamuが詳しく述べている。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20061221/1166691154
もうひとつのメリットは、自然状態の人間にもある程度の社会性を認めることで、国家設立の意義をより明確にすることが出来る、という点である。つまり、国家権力が完璧な監視能力と中立・公正性を持つという(ありえない)前提を国民が共有していない限り、脱法・裏切りが支配的戦略になる可能性は否定できないだろう。社会契約説の意義というのは、萱野氏が言うように国家が本当は暴力によって作られたとしても、様々な法を「信約(契約)」として国民に押し付けることにあり、そのフィクションが機能するためには、そもそも信約は守らなくてはいけないという自然法の思想を受け入れざるを得ないのではないだろうか*1。萱野氏は社会契約説を王権神授説の代用品としか見ないわけだが、それはやはり、社会契約説を過小評価しすぎであると思う。
それと、国家と(近代における)私的所有の関係についても若干の疑問が残る。私的所有は常に「国家以外のものからは」侵されないという形で設定されたと萱野氏は述べているが、では国家それ自体は排他的所有権を有しているのだろうか?この場合私が想定しているのは、明治日本の「皇室財産」に関する論争で、排他的所有権を国家が有する皇室財産を設定することに対して、政府内部からもかなりの批判があったことについてである。国家は自らが所有しないことで、初めて国民の所有権を保障できているのではないだろうか……という考えについては容易に反論が思いつくので(国有地っていっぱいあるじゃん!)、法哲学を勉強して出直してきます、はい。

*1:ケルゼンの「根本規範」ですよね要は