仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想』

集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)

集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)

アメリカのリベラリズムに関するわかりやすい概説書であり、同時に日本の現代思想アメリカのそれからいかに大きな影響を受けているかがよくわかる一冊。東浩紀の「動物化」概念がコジェーブのヘーゲル解釈に由来するという話も面白いですね。自由になるための闘争を終えた人類は「動物化」するというコジェーブの議論を、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で援用し、ジャック・デリダは『歴史の終わり』を「学生の課題論文レベル」と酷評し、デリダ解釈で有名な東浩紀がコジェーブを援用する、という微妙な構図。「結局何も終わってないんじゃないの?」とか、そんな感じでしょうか。
本書を読みながら考えたことをメモしておきます。
アメリカの代名詞である「自由」が実はWASPにとっての自由でしかない、という認識がベトナム戦争、そしてフェミニズムに代表される「差異の政治」の登場によって広がりをみせ、「それじゃあアメリカの自由って何なんだろう?」という疑問が出てきたことが、思想としてのリベラリズムを生み出した。「差異の政治」は、それまで中産階級に属するようなアメリカ人なら疑いもしなかった「発言する自由」や「政治参加する自由」が、実は社会的マイノリティの「自由」を抑圧する形で存在していることを明らかにした。そしてリベラルな知識人たちは「もっとマイノリティの声に耳を傾けるべきだ」と呼びかけた。それは全く正当な主張でしたが、マジョリティに属するアメリカ人にとっては、ある日いきなり自分たちの「自由」に疑問符が付され、マイノリティの「自由」だけが特別視されるようになったと感じられたわけです。そして「どうしてあいつらだけ特別扱いするんだ/俺の言葉も聞いてくれよ」という異議申し立てがなされるようになる。仲正氏が差異の政治に対する「伝統主義」からの反動として描いたのは、だいたいこのような構図です。
ところでこの構図、歴史修正主義が生まれてくるそれと極めてよく似ているんですよね。日本の場合は96年の従軍慰安婦論争が重要。これに対する右派ナショナリストの批判をひとことで言えば「なんで被害者の言葉だけ特別扱いするの?」ということであり、「新しい歴史教科書をつくる会」に至って「そんなことより俺の言葉を聞け」と開き直ったわけです。そして、「歴史=物語」の理屈によって被害者の言葉を「フィクション」として抑圧し、同時に自分たちの歴史観を「フィクション」として批判から守ったのだ、と。
歴史修正主義についての問題は結局のところ「発言する自由」をめぐる闘争であると言えるのではないでしょうか。「つくる会」にとっての「歴史の物語り論」とは、ダントーやホワイトのそれとは全く異なり、これまでに述べてきた「発言する自由」を巡る闘争そのものを相対化する装置として使われているように思われます。