交換とは限定された戦争である

という一般論について。企業戦士の心得を説こうというわけではない。


他人のものが欲しい、と思ったとき、取るべき手段は3つある。
1.奪う 2.諦める 3.交渉して自分のものと交換する。
1はリスクが高い。2は得るものがない。3がベターである。しかし、相手がほしがるような交換材料を、自分は持っていないかもしれない。ここに、万能な交換材料としての貨幣の必要性が生まれる。
しかし、貨幣とは何だろうか?
現在のように、金属や紙が貨幣として普遍的な価値を持つようになったのは、歴史上、むしろ例外的な出来事である。古代から中世においては、目的に応じた多様な貨幣が存在した。たとえば米、たとえば女性。これらは、それ自体が普遍的な有用性を持つために、貨幣の役割を果たしやすいものである。
貨幣としての女性、というテーマでもう少し考えてみよう。
普遍的な価値、という点では文句なしである。共同体の存続のため、女性を奪い合って戦争に発展した例は少なくない。それを避けるために、近親相姦のタブーを設定し、ほかの共同体と女性を交換する。内側への抑圧が外側への開放へと発展する。その意味で「交換とは限定された戦争」なのだ。
日本では古代から中世にかけて、貴族社会で広く乳母(めのと)制度がとられていた。実母にさまざまな「穢れ」のタブーを設定し、それによって外部から別の女性を乳母として招き入れる。この場合乳母は、貴族が与える地位と、それに取り入ろうとする豪族の財の交換を仲立ちする、貨幣の役割を果たすのである。
以上、近親相姦、穢れといったタブーの設定が、貨幣の成立に関わっていることを述べた。これは、別の方向からも証明できる。
穢れ=死の力と考えてみよう。そもそも死とは事実ではなく概念である、と言われている。脳死判定に関する議論を想起してもらうとわかりやすいだろう。人間以外の動物に死は理解できない(象は理解していると聞いたことがあるような)。逆に、生を理解することもできない。人間だけが生と死を理解できるのである。そして、貨幣を用いるのもまた人間だけだ。現在では貨幣の起源が神への捧げ物、この世とあの世との媒介手段であるという見方は一般的なものとなっている。巫女に神が降りるように、貨幣は死を吸い寄せる。だから神社には賽銭箱が置かれていて、そこに貨幣を投げ入れることで穢れを払うのだ。
貨幣としての女性、というテーマに戻ろう。このとき、女性には有用性ではなく、逆に穢れの観念が付与される。なぜなら、穢れ=死の力と考えたとき、女性は交換を阻害する様々な社会的格差に死をもたらすからだ。貨幣は単なる媒介ではない。それ自体が社会に影響を与えずにはおかないのだ。
貨幣経済の進展、つまり狭い意味での貨幣が普及するにともない、女性が担っていた死の力は貨幣が担うようになる。前近代的貨幣が持っていた諸機能が経済的な機能へと純化されるとともに、流通する領域の拡大によって貨幣はその客観性をますます強め、交換の障害を打ち倒すだろう。
そして再び「交換とは限定された戦争である」という命題に戻ってくるのであった。


死、タブー、貨幣。以上の概念によって、人類史を貫く普遍的な原理を見ることが可能となるように思われる。