『Angel Beats!』についての雑感

昨日の深夜にこの作品についての議論を2時間くらいしていたので、そのとき思いついた話を少し。
・この作品にループ世界の設定はあるのか?
想像力たくましい方々によると、Angel PlayerやNPCを作ったのは音無であると。つまり最終回で奏と分かれた音無は、悲嘆のあまり成仏できず、死語の世界に止まりつづけ、ついには自分をNPC化してしまう。そのあと時間はループし、再び初期状態の音無がやってくる。これが繰り返されるが、ある時点でNPC化した音無も成仏することができる。高松がNPC化した状態から成仏できたのはその伏線である、と。
このループ説は筋が通っているようにも見えますが、とくに支持するべき理由も根拠もなく、むしろ麻枝准のエロゲ作品と『AB!』を同じ平面で批評したいという欲望によって生み出された仮説であるように思われます。もしこの仮説が正しかったとしても、あくまで「裏設定」に止まるものであり、殊更に取り上げる必要はなさそうです。
・時間論
むしろ注目すべきは、時間が終わる瞬間、つまり死の瞬間が(音無を例外として)描かれていないことでしょう。死後の世界を描きながら、死そのものは描かれないという逆説。そこにはおそらく、悲惨な過去を死という事実によって完結させるのではなく、現在に向けて開かれたものにしておきたいという意図があるのではないかと思われます(過去が主観的には悲惨ではない音無だけ死の瞬間が描かれるのもこのため)。
この点で麻枝准田中ロミオの比較、なんてことをやってみたくなります。たとえば『リトルバスターズ!』だとループはするのだけど、ループする瞬間は描かれない。逆に田中ロミオはループしないのだけど、ループする瞬間は描かれる(見かけ上の話)。アプローチは逆ですが、狙いは意外と近いのかもしれません。過去を完結させず、現在に向けて開かれたものにしておくということ。
エピゼロ氏は『AB!』で描かれた悲惨な過去の肯定を「アクロバティック」と評しましたが、
http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20100701/p1
しかしその過去は果たして完結しているのか?ということが問われなくてはならないでしょう。そこでベンヤミンの言う「メシア的時間」という論点が出てくるような気がします。
比喩的にいえば、昨日のことよりも1年前のことの方をよく覚えていたりするように、意識のうえでは時間は直線的に流れているわけではありません。ループしたことは忘れているのにループする前のことは覚えている、というのも麻枝准的なモチーフですね。とはいっても殊更にループを持ち出す必要もなく、メシア的時間は人間の意識のなかで当たり前に流れている時間です。ひとことで言えば、過去は現在と向かい合うなかで非完結的なものになるという、そういう時間。
ユイと日向の話が典型的ですが、過去が完結したものである限り、11話のラストで描かれる2人の楽しい日常は妄想でしかありません。しかし、麻枝准はあえてユイの過去を完結させなかった。だからこそそこに再解釈の余地が生まれてくるわけです。
でも、この話はこれ以上発展しないでしょうね。メシア的時間が過去の救済の前提になるのは確かだとしても、何をもって救済するのか?ということが、結局よくわからない。ベンヤミンには唯物論があって、過去は唯物論によって救済されるときを待っている、というわけです。では麻枝准にとっての唯物論、別の言い方をすると正義は何なのか。それが明確にならないと、議論を展開させていくことは出来ないでしょう。
・分節化
正義の不在という点と関連して、スチュアート・ホールの言う「分節化」を問題にしてみたい気もします。アイデンティティ形成のなかで行使される権力作用。『AB!』はとくに無個性な主人公のアイデンティティ獲得と他人の成仏とが結びつけられているので、「俺が結婚してやんよ」よりも根源的な問題であるように思われます。この点に自覚的なのが田中ロミオで・・・・・・という話は拙稿『最果てのイマ』論を参照のこと。