カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)

現代議会主義の精神史的地位 (みすずライブラリー)

専門の方では社会多元主義に最近関心があって、その関連で、というかその最も厳しい批判者としてシュミットの著作を読んでいます。シュミットの専門家になろうというわけではありませんが、一応戦前の活動の全体像くらい押さえておきたいところ。今までに読んだ『政治的なものの概念』、『政治神学』、そして今回取り上げる『現代議会主義の精神史的地位』でなんとなくシュミットの思想がわかってきたような気もするのですが、『独裁』とか、時局的な文章なんかも読んだ方がいいのかなぁ。
本書の感想としては、民主主義を擁護し、民主主義を擁護するからこそ自由主義とその系譜に属する議会主義を批判する、というシュミットの立場がかなりわかりやすく書かれていたと思います。かつて政治学者の福田歓一は、第一次大戦後に民主主義が誰も批判できない普遍的な理念となり、そして普遍的であるがゆえに空疎な理念となったことを「それがいかに通用しなかったとしても、ナチスでさえ反対なのは自由主義であって民主主義ではないといい得たのは近い過去のことなのである」と表現していましたが、ただ、その辺の自由主義者・民主主義者よりもシュミットのほうがずっと深く、その両者について考えていたことは確かなんですよね。
シュミットは議会主義についてこう述べます。議会主義は、選挙人および政党から自由な代議士による公開討論が行われて始めて意味をもつ。「公開討論の原則がもはや信じられなくなる場合には、これらの制度の意味は理解され難くなるのである」。マックス・ウェーバーがかつて指摘していたように、選挙によって選ばれることは、選ばれた代議士が優秀な人間であることをまったく保証しません。それでも議会主義が信頼されるのは、自由な討論を通して私的な意見が相殺し合い、一般意思が抽出されるだろうと考えられているからだ、と(この辺はルソーと同じ考え)。でも現代の議会は「委員会、しかもますます狭められた委員会で事を行い、結局のところついには議会の本会議すなわち議会の公開性をその目的から疎外し」、さらに議会の外では大資本家たちが密談を交わし、議会の決定よりもそちらの方が影響力をもつような事態になってしまっている。これでは議会主義が信頼を失うのも当然である、と。

議会が明瞭な真理をもつ制度から、単なる実用的=技術的手段となる時には、赤裸々な独裁が成立するまでもなく、議会以外の方法でもやって行ける、ということが何らかの方法で事実上示されさえすればよいのであって、その場合、議会はすでに役割を終えている。

この辺がシュミットらしいところなのですが、現在のところ議会主義がうまくいっているかどうかではなく(議会がぐだぐだでもそこでなされた決定は正しいかもしれない)、原理によって考え、そこに真理があるかどうかだけを問題にしているわけです。では、議会主義をしりぞけてどのような制度を採用するのか。シュミットは「〜であるべき」とは書かないのですが(ニュルンベルク裁判で不起訴になった理由)、シュミットがそれを「独裁」だと考えていることは明らかです。

人民とは公法上の概念である。人民は、公共性の範囲においてのみ存在している。一億の私的な人々の一致した意見といえども、それは人民の意志でも世論でもない。人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計装置(=選挙)によってよりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現され得るのである。

シュミットはこの本のなかでくり返しルソーに言及しているのですが、人々の一般意思を代弁し、議論の余地なく喝采によって承認されるこの独裁者がルソーの言う「立法者」と似ているところは確かにあります。ただ、ルソーの「立法者」が大衆を啓蒙し導く神話的存在でありながら、人々を支配しない徳の持ち主であることにも注意しておく必要があるでしょう。
ただ、独裁は本当にシュミットが言うように民主主義と矛盾しないのでしょうか。かなり長くなりますが、シュミットが出した事例を引用してみましょう。

民主主義者がいわゆる民主主義の原則から出発して婦人参政権を主張し、しかもその結果として、多数の婦人が民主主義的に反対の投票をするという経験を嘗めるということもある。ここにおいて、人民は正しい教育によって彼らの本来の意志を認識し、それを正しく形成し正しく表現するように導くことができる、という国民教育の古い綱領が明らかになるのである。これは実際には、被教育者の欲する意志の内容もまたやはり教育者によって決定されるということをまったく度外視しても、教育者が彼の意志を人民のそれと少なくとも当面は同一視するということに他ならない。かかる教育理論の結果は独裁であり、将来に創り出されるべき真の民主主義の名において民主主義を停止することである。これは理論的には民主主義を廃棄することではない。しかし、このことに注目することが肝要であるのは、独裁は民主主義の対立物ではないということをそれが示しているからである。このような独裁によって支配される過渡期においても、民主主義的な同一性は維持され得るし、人民の意志だけが標準的であることも(また)可能である。

民主主義を固持しようとするなら、人々は民主主義者であるように強制されなくてはならない。そこに教育独裁が生まれる。また、シュミットは治者と被治者の一致という民主主義の原則について「法律的にも政治的にも社会学的にも、真に同等なものが問題なのではなく、同一化が問題なのである」と述べています。民衆の欲望を代議士が体現することだけが民主主義なのではなく、独裁者が欲望を生み出し、それを教育によって民衆に植え付ける。それでも、両者の欲望が一致している以上民主主義なのだ、と。
こういったシュミットの民主主義論を理論のレベルにおいて批判するのは難しいのですが、まさにシュミットが「原理的ではない」として切り捨てた、議会主義の功利的側面から捉え返すことは可能でしょう。結論の正しさ、あるいは一般意志との一致が保証されないから議会主義はダメだとシュミットは言うわけですが、それらを全く保証しないというまさにそのこと、ただ多数者の意志を実現させるだけだという議会主義の闘技的性格こそが重要なのではないか、と。多数決に敗れたからといって、ルソーやシュミットがいうように多数者の意見を「一般意志」として有難がる必要もない。「今日はたまたま負けたけれど、次は自分の意志を実現させる」でいいのではないか。もちろん現実には多数者の決めたルールが敗者にも押し付けられるわけで、「一般意志」というフィクションがあるからこそその暴力性が緩和されるのだ、とも言えるわけですが。はっきりとは答えられないですね。