磯田道史『武士の家計簿』

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

文句なしの傑作。本書のなかで主張されている内容が新鮮で興味深いというのもありますが、著者が取り上げる猪山家のサクセスストーリィが面白くて、とにかく読ませるのです。著者の研究にかけた労力・文章力にはもちろん敬意を覚えますが、同時に「こんなにいい材料を手に入れるとは……」という羨望を感じます。江戸時代の専門家やマニアから、武士の生活にほんのちょっと興味があるという程度の人にまで、満遍なくオススメ。
内容の話に移ります。本書は加賀藩士猪山家文書という「武士の家計簿」を題材に、当時の武士がどういうことにお金を使い、どこからお金を得ていたのかを明らかにしているわけですが、これを読む限り「武士は食わねど高楊枝」という人口に膾炙した言葉はかなり正しいことがわかります。現代に生きる我々は、生活に困ったら普通は交際費から出費を削って行くわけですが、武士の場合、交際費は一番最後に削るわけですね。
ではなぜ武士は交際(とくに親戚付き合い)にお金を使うのか?連座制、子供の教育には親戚の助けが必要といった「そうだろうな」という理由と共に、親戚関係を中心とした同じ武士の間で作られる金融ネットワークに家計が依存しているからだ、と筆者が述べていることにちょっとした衝撃を受けました。江戸時代の金融といえば大名や旗本が富豪の町人からお金を借りるというイメージがありましたが、実際は武士の仲間でつくる「講」でお金を融通しあっているのだ、と。その場合でも年利18%くらいの金利を取るわけですが、このような仲間内の金融が最後の頼みである以上、仲間との交際をおろそかにすることは出来ないわけです。あと自分の領民からお金を借りてるという話もあって、これも面白いですね。
結局のところ多くの武士は貧乏であり、自分が雇っている使用人よりもお金を持っていないことさえある。こういった権力と経済力との不一致によって社会に「圧倒的な勝ち組」が生まれず、そのことが体制の安定を生み出したのだと著者は主張します。
そのほかにも収入の季節性だとか、どの儀式でどれくらい費用がかかるかとか(「江戸時代の武家では百回忌・二百回忌というような法事も珍しくはない」)、明治維新後の士族の動向といった面白い話がたくさん書いてあるわけですが、それらは実際に読んでくださいということで。中盤以降、猪山家の当主がその財務能力(精巧な家計簿を残すくらいですから)を買われて大村益次郎にスカウトされ、戊辰戦争を戦い抜くくだりはもう、そのまま歴史小説にしてもいいくらいだと思いました。