カール・シュミット『政治神学』

アニメやゲームの話を期待している方はゴメンナサイ。次くらいにはアニメの話を書きます。
それはともかく、今日はシュミットの『政治神学』を読んでいました。実のところ、シュミットに対するこれまでの自分の理解は大きく間違っていたと言わざるを得ないということに気づいたので、後日のために簡単にまとめておきます。

政治神学

政治神学

要点1.シュミットは決断の主体として主権の存在を重視するが、主権が必要とされるのは戦争や内戦といった例外状態においてのみ「ではない」。

「主権者とは、例外状況に関して決定をくだす者をいう。……ここにいう例外状況とは、国家論の一般概念として理解すべきものであり、なんらかの緊急命令ないし戒厳状態の意味ではない」(11頁)

「たとえ判定の基準としては法的原理が一般性において存在するにすぎないとしても、具体的基準は具体的に判定しなくてはならない、ということである。……法理念それ自体としては変形しえないということは、だれがそれを適用すべきかについて、法理念がなにひとつのべていない、ということだけからして明白である」(43頁)

シュミットが好んで戦争や内戦といった例外状況を取り上げるのは、そこにおいて「決断」という政治において不可欠な要素がもっとも前景化するためである。しかし、決断はもっと身近な状況、たとえば泥棒に対して「窃盗罪」という法律を適用する際においてもあらわれる。
われわれにとって身近な例として、車のシートベルトの着用義務についての法律を取り上げてみよう。後部座席に座っている人もシートベルトをつけなくてはいけない、という法律自体は2008年1月から施行されていたが、「着用率が低いため」という理由で、罰則は適用されていなかった。しかしその後の調査で着用率が向上したことが判明したため、10月から未着用者に対する罰則が適用されることになった。このことからもわかるように、法は自動的に適用されるのではなく、誰が、誰に対して適用するかという決断を必要としている。ここに決断の主体が必要とされる理由がある。


要点2.主権者、シュミットのいう独裁者は法を停止する権利をもつが、それは独裁者が法の枠外にあることを意味しない。

「主権者は、平時の現行法秩序の外に立ちながら、しかも、憲法が一括停止されうるかいなかを決定する権限をもつがゆえに、現行法秩序の内にある」(13頁)

ワイマール憲法の「第48条はむしろ、無制限な全権を付与するものであって、したがって、もしも制約なしにこれにかんする決定がくだされるばあいには、1815年の憲章第14条の非常権限が君主を主権者たらしめたのと同様に、これは、主権を付与するものとなるだろう。第48条の支配的解釈のように、(ドイツ国内の)各邦が例外状況を宣言するなんらの独立的権限をもたないのならば、もはや各邦は国家ではない。ドイツ各邦が国家であるかいなかの問題の核心は、第48条に存在するのである」

主権者は法が通用する平常時か、それとも法が通用しない例外状態かを判断し、後者の場合は法を停止することができる。そうして主権者は独裁を行うわけなので、法の枠外にある。しかしその独裁が行えるか否かの根拠は憲法という法に求められているわけで、法の枠内にいるともいえる。主権者は、法を基にして、法を越えていくのである。


要点3.シュミットは、彼に対する批判者が言うような「例外状態の常態化」に対して、基本的に反対の立場をとる。

「混乱状態に適用しうるような規範などは存在しない。法秩序が意味をもちうるためには、秩序が作りだされていなければならないのである。正常な状態が実際に存在するかいなかを明確に決定する者こそ、主権者なのである」(21頁)

実際のところ、シュミットは国家の意義を、法秩序が意味をもちうる「正常な状態」を維持ないし回復させることに求める。さきほども述べたように、シュミットにとって例外状態とは、あくまで主権者の存在が前景化される状態であるだけで、主権を維持する上で必須のものではない。
シュミットが主権者に与える荒々しい役割は半面、平和を回復し、法秩序を正常に機能させるためのものであることを見逃してはならない。むろん、そんなシュミットがナチにコミットしたのは何故か、という問題はなお残るわけだが。
興味深いのは、シュミットが政治学と神学との類似性を述べながら、両者の共通点として「上級審の不在」を挙げている点だろう。

「国家の価値は、それが決定をくだすところに存し、教会の価値は、それが究極の抗弁不能の決定であるところに存する。ドゥ・メーストルにとって、無誤謬性は、抗弁不能の決定の本質であり、教会的秩序における無過失性は、国家的秩序における主権と本質を等しくする。無過失性と主権という二語は、「完全に同義」(教皇論、第一章)なのである。……いかなる上級審もその決定を再審しない、という点がかんじんなのである」(71〜72頁)

主権者が間違えない、というのはつまり、誰も主権者の決定に対して異議を唱えることができないということである。それは確かに「独裁」の当然の帰結なのだけど、やはりこの辺に問題の核心があるような気がする。国家以上の上級審は本当に存在しないのか。シュミットは『政治的なものの概念』のなかで、かなり強引に政治と国家を結び付けるが、主権国家がはらむ内的緊張や、彼の主張するpluriversum(主権国家が国際社会の中で分立する多元主義)の構造自体が示す不安定性は視野に入っていない。シュミットの主権国家論はそういった視野の狭さによって成り立つ仮定であることから考えてみる必要があるだろう。