『とある科学の超電磁砲』についての雑感

端的に言ってそれほど好きな作品ではないのですが、気がついたらコメント欄やtwitterでこの作品の話ばかりしている今日この頃(好きではないからこそ解剖的に観てしまうのかも)。キャラクタもお話も琴線に触れるところがないし、そもそもどこが「とある科学」なんだ?ということを考えてしまう時点で、すでにこの作品の「良い視聴者」ではないような気がします……。
そんなわけで、この作品についてはもっぱら「風景」に注目しながら観ています。学園都市という、少し近未来的な風景が呼び起こす違和感。都市と人間、社会と不安、マルチチュード。人工的でありながら、その起源の痕跡をとどめていないという意味で「自然的」である、という両義的な風景。このブログで何度も取り上げてきた『ef』の舞台もまた人工的な都市ですが、その都市が廃墟の上に築かれたことの痕跡が何度も描かれているという点で「非自然的」であり、『超電磁砲』の風景とは対照的である、とかそんなことを考えながら観ているわけです。あとは、あまりの監視社会ぶりにぶるぶる震えたり、犯罪の多発に「やっぱり締め付けすぎてはいかんよなぁ」と思ったり。
そういうポエムっぽいことばかり書いていても仕方ないので、今週の第6話について少し。
美琴がコンビニの前に捨てられたゴミを拾い集めるエピソードがありましたよね。今まさに掃除をしている美琴の前でゴミを捨てる人がいたりして、学園都市の生徒は意外とマナーがなってないぞ、なんてことを考えるわけですが、この風景と、この後で出てくる、不良にからまれた学生がボコボコにされるシーンが、奇妙に響きあっているような感じがしました。
園都市にあっては、いっさいが生活と娯楽、そして能力開発という目的のために適合される一方で、日々の生活の中でたえずゴミは生まれ、都市の余剰として孤立している。異物を排除することで最適化されながら、その内部から自動的に余剰を生み出し、異質なものを抱え込んでしまう。こう書くことで、あの殴られた学生が学園都市にとっての「余剰」である、などと言いたいわけではありません。そうではなく、<私>の目的や認識とは無関係に、自動的に余剰を生み出す学園都市の風景が、ひとが世界の中で孤立することの悲哀と、どこかで通じ合っているような気がしたのです。
柄谷行人は風景について「周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景がみいだされる。風景は、むしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである」と述べています。それはつまり、<私>の延長として風景が見いだされるのではなく、<私>と外界との間に大きな断絶があること、<私>と外界とがそれぞれ孤立しているという認識において初めて風景が見いだされるのだ、ということです。しかし、内面への潜行を通して風景が見いだされることからも分かるように、異質な他者である風景は、すでに<私>の内面へと食い込んでしまっている。別の言い方をすれば、<私>は否応なく風景にさらされてしまっている。一度見いだされた風景を無視することはできないわけです。
不良に殴られていた学生は、自分を助けようとした美琴に対して極めて冷淡な態度を取りました。そんな彼が、目の前の人間を見ようとしない彼こそが、学園都市の風景をもっともよく観ている人間なのではないか、と思います。だからこそ……。
と、やっぱりポエムっぽくなりましたが、今日はこのくらいで。