最近、自分が田中ロミオ信者であることを思い出して『CROSS†CHANNEL』を再インストールしたのですが、割と序盤に出てくる

「まだ熱血甲子園君だっていっぱいいるんだよ」
「あ、彼らはポストモダンとか言ってる連中のなかでは観察価値のある人間って見なされていないから」

というやり取りに不意をつかれて、笑ってしまいました。「熱血甲子園君」が「ポストモダンとか言ってる連中」に無視されてるというのは、確かにその通りかもしれません。
とはいえ、理論の網から逃れ出てしまうわけでもない。「ポストモダン」(という意味不明な言葉)を仮に「価値観の多元化」として捉えるなら、「アニメオタク」も「熱血甲子園君」も、自分自身の価値観は膨大な情報に晒される中で「あえて」選択されるものであるという点で変わりはなく、また、それが相対的・並列的な価値観の中から「あえて」選択されるものであるために、かえってその価値観にどっぷりはまってしまいがちである、という点についても共通している。つまり両者はそれほど変わらないのではないか、ということですね。
それは例えば、田舎に住んでいる人間には都会の情報と都会への移動手段が、都会に住んでいる人間には田舎の情報と田舎への移動手段が与えられている現代においては、田舎に住むこと、都会に住むことがどちらも主体的な選択として自覚される機会が増えていることと似ているかもしれません。
しかし、それでもなお経済的・社会的理由から移住したいけど移住できない人も大勢いるわけで、「ポストモダンとか言ってる人」が「熱血甲子園君」を表立って論じないことについても、熱血甲子園君にならざるをえない人がいまだに存在していることを無視している、と批判することは可能でしょうね。