「ある」ことを見る

闇が内容物のように夜の空間を充たしている。夜の空間は充溢しているが、それは、何もないことで充溢している。(中略)曖昧模糊としたこの状態のなかで、あるという純然たる驚異が発せられる。
 エマニュエル・レヴィナス「ある」(合田正人訳『レヴィナス・コレクション』)

何かを凝視することとは、その「何か」を私にとってひどくよそよそしいものに変えてしまい、それが私を不安にさせる。山の頂上から眺める日の出はとても神秘的なものだが、それは私を照らし、私を暖めるための光ではなく、むしろ私とは関係のない世界で輝き、私を圧倒するものである、とも言える。
吉本隆明開高健の『ベトナム戦記』に対し「わざわざベトナム戦の現地に出かけて、ベトコン少年の銃殺死を見物しなければ、人間の死や平和と戦争の同在性の意味を確認できな」いのかと批判した。作家の本分とは「幻視」することであり、平和な日本の中で覆い隠された闘争を見出すことである、と。しかしそうだろうか?「見る」ことと「知る」ことはイコールではない。「知る」ことは自分から独立した他者と繋がりをもつことだが、「見る」ことは自分の身を他者の前に曝し、時にはそれによって自分自身を変えてしまうことである。

リュウ、あなた変な人よ、可哀想な人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの?うまく言えないけど本当に心からさ楽しんでいたら、その最中に何かを捜したり考えたりしないはずよ、違う?
あなた何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さい子供みたいに。実際子供なんだわ、子供の時は何でも見ようってするでしょ?赤ちゃんは知らない人の目をじっと見て泣き出したり笑ったりするけど、今他人の目なんかじっと見たりしてごらんなさいよ、あっという間に気が狂うわ。」
 村上龍限りなく透明に近いブルー

この作品の淡々とした、事物を忠実に描写していく文体は、単に現実の再現を提供するだけではない。その形態、動きを越えて、ただそこに「ある」ことの姿を描き出す。「ある」ことを見るために、リュウは自分の体から乗り出すようにして、自らの外にその存在を曝す。しかし、それはおそらく「気が狂う」ような行為だろう。暗闇を凝視し、暗闇が発する音に耳を傾けた経験があればわかるだろうが、それは自らが見つめるものに飲み込まれる恐怖を呼び起こす。
だから普通は「ある」ことを見ないし、自分の存在を外に曝すことがないよう、「自分」と「外」を明確に区切ろうとする。ただ一方的に世界に曝され、あるいは世界に養われるだけの自分から、自分自身を所有し、労働によって世界を切り開き意味づけする自分へと変わろうとする。

鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥をころさなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ。
 同上

私とは無関係に世界は「ある」。私がどれだけ変わってしまっても、闇は囁き、木々は輝くだろう。レヴィナスはこう書いた。「戦前の自分たちの生活を織りなしていたいくつかの事物を幸運にもふたたび見いだした者たち、彼らが最初に味わった失望は、おそらく、これらの事物が昔通りのなじみ深い姿で存在しているのをふたたび見いだしたことだった」。そんな世界の中に、人間は否応なく投げ出されている。私の足元を支える大地もまた「ある」のだから、私は「ある」ことに養われている。しかし「ある」ことは、私とは無関係なものである以上、次の瞬間にどうなっているか予測することが出来ない。今日「ある」ものは、明日には「ない」かもしれない。それが「ある」ことに囲まれて生きる人間の不安ではないだろうか。