カフカと手紙

アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinohaの絶対ブログ領域
昨日もお知らせしましたが、ぶっちゃけ誰も読んでないみたいなので、加筆部分(の一部)だけ転載。

作家のフランツ・カフカは、恋人に向けて書いた膨大な量の手紙を残していますが、その中には「手紙について書かれた手紙」も存在しており、コミュニケーションに関する彼の鋭い洞察がうかがえます。例えばこういう内容。


「われわれはあまり一緒にいませんでした、それは本当ですが、しかしたとえわれわれが一緒にいたとしても、ぼくはあなたに(ただし実行不可能なことですが)ぼくを手紙から判断するよう、直接の経験からそうしないように頼んだでしょう。手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」
― 1915年3月25日付 ―


これをカフカの対人恐怖症の表れだと考えても、必ずしも間違いとは言えません。ただ、ここでは最後の「手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」という一節に注目してみましょう。ジャック・デリダは西洋哲学における伝統的な考え方、「書かれたもの」に対する「発話」の優位を転倒させましたが、カフカが意図していることもそれと同じく、間接的なコミュニケーション(非現前性)に対する直接会ってするコミュニケーション(現前性)の優位をひっくり返すことにあったのではないでしょうか。
誰かと一緒にいること、誰かと一緒に話していること。そういった現前性を、僕たちは普通、手紙のような非現前性よりも本来的なものであると考えます。しかし重要なことは、古代ギリシア人が唱えた「発話の優位」は彼らによって書かれたものを通してしか確認できないのと同じように、現前性の優位もまた非現前性を通してしか確認できないのだ、ということです。例えば「いま」僕が誰かと会話しているとしましょう。手紙ではなく「いま」こうして会話していることに、僕は満足を覚えています。しかし実は、僕が「いまは楽しいなぁ」と思った瞬間、その「いま」は既に過ぎ去ってしまっている。「いま」とは過去の痕跡でしかありえないのです。そのため、現前性や発話の優位とは、「過去の痕跡」によって「いま」を確かめながら、同時に痕跡の存在を忘れてしまうことによってしか成り立たない、と言えるでしょう。
カフカが直接的な会話(現前性)に対する手紙(非現前性)の優位を主張したのは、「手紙」が示す起源との隔たりこそがコミュニケーションの本質であり、現前性の感覚はその隔たりを隠蔽することによって初めて成り立つのだということを知っていたためではないでしょうか。そして、コミュニケーションが他者の言葉を解釈し、他者に向けて言葉を投げかけるものである以上、自分と他者との間にある「距離」はコミュニケーションの障害ではなく、むしろそれを成り立たせる必須条件であると言えるます。だからカフカは、コミュニケーションを活性化されるためにこそ「手紙」を用い、自分と恋人の間にある距離を常に確認しなければならないと思ったのでしょう。

カフカ全集』から彼の手紙をさらに引用してみましょう。今度は1913年3月20日付。

「あなたに書かない場合、ぼくはあなたのずっと近くにおり、ぼくが通りを歩き、至るところで絶えずなにかあなたを思い出す場合、ぼくはひとりで、または人中でお手紙を顔に押しつけ、あなたの頸の匂いでもあるその匂いを吸いこむ場合、――そのときぼくは一番しっかりとあなたを心のなかで掴まえているのです」

簡単に言ってしまえば、何かを、それについて考えたり話したりする対象にしようとすることは、私とその「何か」を引き離すことでもある、ということです。私とあなたが何も考えずに向き合っている最中は、私とあなたの境界線もあいまいになって溶けてしまうような感覚を覚えますが、私が筆を取って「あなた」について書こうとすれば、「あなた」を私とは切り離された対象にしなければならない。手紙を書くことは普通、相手に対する近さを確認する行為ですが、カフカにとって正反対で、相手を自分と切り離す(客体化する)行為だということです。
では手紙をやめて、直接会ってお喋りすればいいのでしょうか。ひとつ目の引用で「手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」と書かれているように、直接会ってする会話も相手を客体化する行為であることに変わりはなく、ただ手紙ほどそれが露骨ではないだけです。
だから、相手を客体化せずに自分との近さを保ちたいのであれば、会話することも手紙に書くこともせず、ぼんやりと頭の中で思い描いているのが一番良い、とカフカは考えるわけですね。カフカの恋人に対する態度にはかなりの振幅があり、調子がいいときは「それでも会話したい」となるし、調子が悪いときは「彼女との距離を感じるくらいなら会わないほうがマシ」となる。こう書くとすごいダメ人間っぽいですね……。
ただ彼は、「今」が楽しくてもその「今」が過去の痕跡に過ぎないこと、会話をしていてもその相手と自分自身の認識との間にはズレが生じていること、こういった表象と起源との隔たりが気になって仕方のない性格だったのでしょう。それはカフカの文学的な主題ともなっています(例えば『変身』だと、人間としての「私」という意識と、その意識を生み出す「私」が既に虫になってしまっているというズレ)。