メディアミックスによってメディアが作られる論

「メディアミックス」という概念が、その響きとは正反対に、漫画やアニメといった個々のメディアをより確かな(越境不可能な)ものとしていく、という仮説を立ててみました。そもそも「ミックス」することに価値があるのは、それが本来はミックスされていないものだからです。漫画やアニメの間にはきっちりとした境界があり、それを崩すのではなく、乗り越えることでメディアミックスが可能になる。別の言い方をすれば漫画とアニメが本来「混ざっていない」からこそメディアミックスが行われるわけですが、しかし、そのような規定を本来的なものとして受けいれて良いのでしょうか?
例えば漫画だと、その中には色々な要素がつめ込まれています。1枚の絵画のようなコマもあれば、台詞ばかりで小説のようなコマもある。現代ではパソコン上で漫画を読むことも可能ですが、そうなるとひと昔まえのビジュアルノベルに限りなく接近します。しかしそれにも関らず、僕たちはその多様な要素を「漫画」という概念の中に囲い込みます。このような囲い込み、線引きはあくまでも歴史的な産物として捉えるべきであり、その重要な契機こそが、メディアミックスなのではないか、と。
よくある煽り文句で「アニメ化不可能と思われたこの作品がまさかのアニメ化!」というのがありますけど、実際にアニメ化が不可能だった部分がのちに漫画の固有性とされ、漫画化できなかった部分がアニメの固有性とされる。こうして漫画やアニメの領域が確定されていくのだとしたら、このふたつの概念はまさにメディアミックスの産物であると言えるのではないでしょうか。
例えば、漫画をアニメ化したり、逆にアニメを漫画化したりといったメディアミックスをやりたいと思ったとしましょう。でも「アニメ化」するためには「アニメとは〜」という境界設定をしなければなりません。「漫画化」する場合も同様。それが行われる以前において「漫画」や「アニメ」の区別は自明ではなく緩やかなものであり、極論をいえば、メディアミックスに先立って「漫画」や「アニメ」が存在していたとは必ずしも言えないのではないか、というわけです。
実際極論だと思うのですが、戦後日本における漫画やアニメの歴史がまさにメディアミックスの歴史であることの意味を考え直すことが必要なのではないかな、と思ったので一応書いてみました。先々週あたりの『GA』に、漫画の吹き出しと文字をそのまま再現しているカットがあり、「これって漫画をテレビで観ているのと同じじゃないかな……」と思ったのがそもそものきっかけです。30分アニメを観るとき、普通はそのすべてが「アニメ」だと思いますよね。実写カットも、漫画も、テレビアニメの技法として解釈される。ただそれは本来「アニメとも漫画とも写真ともいえない混沌としたもの」として解釈されることが可能であるにも関らず、そう解釈されないのは何故かということを考えなくてはいけないのではないか、と。