『涼宮ハルヒの憂鬱』についての雑感

第2期のOPを見ていると、京アニはぼちぼちエロゲのOPでも作りそうな勢いだなと感じる今日この頃。普通に考えれば「key」でしょうけど、あえて「アトリエかぐや」辺りを希望。あ、別に本編のアニメ化でもいいですよ。
という冗談はともかく、よく「ハルヒビューティフルドリーマーの2番煎じ」みたいな話を聞きますが、どちらかと言えば両者の違いの方が重要じゃないか、と僕は思います。「ハルヒ」はキョンが彼女の物語に参加しようとする話であって、別にハルヒの現実復帰を目的にしているわけではないだろう、と。『憂鬱』以降に起こっているのはむしろ逆の事態ですよね。
ハルヒキョンにキスされてますますお姫様願望を強め、キョンは世界を救う英雄であり最後にはお姫様と結ばれる古典的騎士道物語りの主人公になる。オチをつけるとすれば、ふたりが(ハルヒだけでなく)地に足の着いた夢を見つけるか、キョンが「終わりのない彼女の物語」に付き合い続けるという悲壮な覚悟を決めるか、のどちらかだろうと思います。前者だと説教臭くていけないですよね、押井じゃあるまいし。
仮にハルヒが一時の居場所(キョン君大好き!)を得たとして、彼女はあの通り難儀な性格で、特異点で、機嫌を損ねたら世界をリセットしかねない存在であることに変わりはなく、彼女と付き合うことは即ち、絶えざる努力と忍耐を持って死ぬまで彼女を支え続けることを意味しているわけです(何かの奇跡によって彼女が全ての力を失ってしまう、という面白くない可能性を除外すればの話ですが)。その覚悟をキョンが決めることが出来れば、宇野なんとかが馬鹿にしたような「青春小説」から飛び出して行くことが出来るのではないでしょうか。この辺は予想半分、願望半分といったところ。
谷川流あるいは京アニは、押井や冨野のように政治の洗礼をくぐってきたわけでもなければ、庵野のようにオタクの自意識をこじらせたわけでもない。そんなわけで「ハルヒビューティフルドリーマー」という構図からはちょっと距離をとりたいな、と。虚構に対して現実を対置させるのではなく、超越性に対して真正性を、代替可能性に対して代替不可能性を対置させること。代替不可能性は持続性あるいは「持続の予期」によって生まれてくるものである以上(長くその関係が続くと予想しているからこそ、特別な意味を与えようとする)、まずはそれを受けいれることが必要になるのでしょう(これって「方法としてのナショナリズム」批判にも通じるなぁ)。
それにしてもキョンはいいキャラクタですよね……。原作のキョンは単なるエロゲ主人公ですが、アニメになって表情の変化が生まれて、それをロングショットを多用して客観的に捉えることで内なる声と外面との分裂がより明確になり、それが人物造形上の深みとなって現れているように思います。そしてキョンのやかましいモノローグとフラッシュカットによって作られる音楽的な独特のリズムと、静かなマスターショットとの対比。2期になってそのメリハリが若干弱くなったように思いますが、なお凡百のアニメよりはずっと良く出来ています。