「リアルロボット」という用語に関する雑感

思いつき程度に。
仮に「リアルロボット」という言葉を「現実世界におけるロボットと操縦者の関係に対して忠実であること」と解するのであれば、操縦者の成長とはロボットの操作に習熟すること、別の言い方をすればロボットに合わせてパイロットが変化することであると言えるでしょう。「スーパーロボット」をそこからの逸脱だとすれば、パイロットの成長に合わせてロボットが変化していくことになります。『Gガンダム』とか『アクエリオン』のように。
個人的にはリアルロボットの方にぐっと来るものがあります。『ボトムズ』面白いですよね。与えられたマシンのスペックを限界まで引き出すエースパイロット、というイメージからは地に足のついた格好良さを感じます。しかし、ロボットという言葉を「人間が搭乗する人型兵器」に限らず、ベルトコンベアで作業するマニピュレータや物資を運搬するロボットカートなども含めて考えるのであれば、それに習熟することは必ずしも良いことばかりではなく、『モダン・タイムス』的な問題が存在するのだということもイメージしやすくなるでしょう。
「リアルロボット」において完璧な操縦者はロボットそのものであり、「スーパーロボット」において完璧なロボットは操縦者そのものであると言えます。リアルロボットとスーパーロボットは一見すると正反対のようで、どちらも突き詰めていけば同じものになってしまう。突き詰めて振り切ったロボットアニメである『エヴァンゲリオン』がリアルともスーパーとも判断できないのはそういう理由ではないでしょうか。
ま、それは余談として。アニメに描かれる人型ロボットはやたら汎用性が高くて何でも出来るので、大局的に見ればコマのひとつでしかない、という感覚は意外と描きづらいようです(だから『ガンダム』はアムロ・レイ最強伝説になる)。最近の『コードギアス』でも最終回近辺は大規模な会戦の描写が続きましたが、ルルーシュが一生懸命陣形を組み替えたりしているのを見ても「みんな好き勝手に飛び回っているのだから陣形なんて意味ないんじゃない?」と思いました。
人型のロボットが出てくる古い作品(『メトロポリス』や『R.U.R』)ではプロレタリア階級闘争の隠喩としてロボットの反逆が描かれます。分業化が推し進められることで、プロレタリアは自分たちの労働が商品の生産に対してどのように関っているのか見えなくなってしまった。その象徴が個々の製作機械であり、反逆するのは全能性を謳う人型ロボット、という構図。
「リアルロボット」と呼ばれる(あるいは作り手が意識する)作品において頻繁に現れる主題は「統一」である、と言えます。それは人型ロボットの全能性とシンクロするようにして現れるわけですから、それだけに、その全能性を揺るがせる兵站の重要性を描いた作品(08MS小隊とか)では、反対に「コマとしての兵士」が強調されるのです。兵站の問題をほぼ完全に無視して「全能者としての人型ロボット」と「無力な一般人」という構図を提示したのが『ガンダム00』。実はまだ続編を見ていないのですが、どうなってるのかな……。