物語のメディアと「神の視点」

僕たちは時々「神の視点」という言葉を使いますが、たとえ無神論者でなくても一神教的な神の姿を具体的にイメージしながらその言葉を使っているわけではなく、その意味は非常に曖昧なものであると思われます。今回はその「神の視点」について少し考えてみましょう。
散々語られている内容だと思いますが、それでも語っておかないと先に進めないので……。


例えば映画における「神の視点」だと、どんなショットがそれに該当するのでしょうか?僕のイメージだと、映画の冒頭で使われることの多い、話の舞台を俯瞰したショットがそれに当たります。上空から物語の舞台全体を俯瞰し、より低い視点から街の一部を切り取ったショットをそれに繋げる方法。映画冒頭における定石のひとつであると言えるでしょうが、そこには見過ごすことの出来ない、僕たちが物語空間を把握する際の特徴が現れています。
それはつまり、ある意味ではフィクショナルな存在である物語の舞台という「全体」があり、その部分として個々の視点による街の風景があるということ、別の言い方をすれば、個々の視点による風景はあらかじめ「全体」の中から切り取られたものとして認識されている、ということです。


それは僕たちにとってあまりに「自然な」ことなので、相対化の材料として試みに日本の絵巻物を取り上げてみましょう。
まず、絵巻物における物語世界は、個々の視点の集合に他ならず、「全体」はそこから事後的に立ち上がってくるものであると言うことが出来ます。その端的な表現が歪んだパースペクティブ、ときには画面の最下部に消失点が位置する逆遠近法が採用されていることです。それならば、物語世界を見渡す視点はどこにあるのか。その手がかりは、絵巻物の構図と、その受容形態にあります。
絵巻物は基本的に俯瞰で描かれており、特に中世以降のものは斜め上から見下ろす形で描かれることが非常に多いと言われています。天井を描かない「吹抜屋台」の技法もその関連で生まれたもの。では、なぜそのような構図が多用されたのでしょうか。それは、絵巻物は床に広げて見下ろすものであり、見下ろす読者の視点がそのまま構図として反映されたためである、と一般に考えられています。
その意味で、絵巻の視点は肉体の感覚と寄り添うように存在していると言えるでしょう。長押や畳によって整然と区分された空間に、点々と配置された登場人物たち。場面全体の把握よりも人物のディテールに目の行きがちな読者の、具体的な身体に付属する視線の動きが絵巻物には反映されています。


時代は下って、小説の視点はどうでしょうか。
ベネディクト・アンダーソンによると、小説以前の物語と小説を決定的に区別するものは「その間meanwhile」に関する語法であるということです。AさんとBさんが同じ時間に別の行動をとっているとして、小説以前の物語では回想を用いて表されていたものが、小説では「一方その頃」という風に並列的に表されるようになる。この違いを生み出すのが、離れた場所に存在するAさんとBさんが「同じ物語空間」に存在することを保証し、歴史の始まりから終りまでを把握する「神の視点」に他なりません。
三人称文体において神の視点が顕在化しやすいのは事実ですが、一人称でも「まさかあんな恐ろしい事態が待っているなんて、このときの私には想像も出来ませんでした」という風に、神の視点が顔を出すことがあります。しかし、いずれにせよ、このとき神の視点は物語の登場人物からも、読者からも離れ、純粋に物語の外部から「全体」を俯瞰することで、それは神の視点であることが出来るのだと言えるでしょう。


簡単にまとめると、まず神の視点は日本において近世あるいは近代以降(線引きが難しい)特有の存在であり、それは身体に付属する個別的な視点を「全体」に回収し整理するものである、ということです。遠近法による僕たちにとっては普通の空間把握も、それによって可能となります。
そこで問題となるのは、なぜある時期から神の視点が可能になったのかということです。それは第1に、新聞や天気予報、グリッド表現の地図によって空間の均質性や「その間meanwhile」の用法に慣らされてきたということが重要なポイントとなりますが、それらが空間の認識範囲を拡大させると同時に、日本や県、地方といったシンボル的な領域にそれを固定する役割を果たしてきたという点も押えておく必要があるでしょう。映画においては俯瞰ショットに続けて低い視点の風景ショットが繋げられ、小説においては一定の広がりをもった舞台と時間とが設定されるのも、上記のような神の視点の捩れた作用と関係しているように思われます。