明日にでも電車に乗って、尾道まで遊びに行こうかと思います。青春18きっぷの日帰りで。道中はじっくり本を読むと決めているので時間の無駄はないはずなんですが、何というか、物理的に移動すると、それだけで充実した時間を過ごせたという錯覚が得られてしまう恐ろしい罠があるわけで。中国の内陸部に入り込んだ旧日本軍みたい。この比喩はイマイチか……。
最近、サイクリングとか、普通列車の旅とか、好きなんです(やばいなぁ)。


コードギアス』の谷口悟朗監督が、日経ビジネスオンラインで制作側の考えを「解説」していることに対し、『新・アニメ・批評』のK・ワークスさんが厳しい批判を加えています。僕としては的を得た良い批判だと思ったですが、現在では何故か記事が消されている。なので記憶違いがあるかもしれませんが、僕の考えを少し書いておきます。
K・ワークスさんが言うには、制作者が自らの作品に言及することに対し、映画とテレビアニメとでは異なる倫理性が要求される。テレビアニメの制作者は作品が完結してから語るべきである、と。その理由は必ずしも明らかにされていませんが、僕が思うにジョン・フィスクが『テレビジョンカルチャー』に書いた以下のような事情に由来しているのではないでしょうか。

(テレビドラマの視聴者が「この先の展開はこうするべきだ」という風に作品へ口出しし始める行為について)
「視聴者によるこのような『脚本執筆』は、テレビジョンの出来事は現在起こっているという感覚が、視聴者と同じ時間尺度で進行するからこそ可能になるのである。テレビジョンの連続ドラマの将来は、本当の将来と同じように『書かれざるもの』のように見えるからなのである。この点、書籍や映画は違う。書籍や映画の読者・観客は結末が既に書かれており、最後には明らかになることを知っている」

視聴者が「来週はああなるんじゃないか」「こうなったらいいな」と「脚本執筆」を行うことまでがアニメの受容体験であるとすれば、そこに神のごとき制作者が現れて作品全体を貫く「意図」を語ることは、作品がすでに動かしがたく完結したものであることを視聴者に感じさせ、受容体験を貧しいものにしてしまう可能性があります。もちろん「何を語るか」によるわけですが。
映画でも『スカイ・クロラ』の公開前に押井守監督が「ティーチャの機体はファルスの象徴で云々」やってたのはさすがにどうかと思いましたが、それに対する反感の表明があまり見られなかったのも、『スカイ・クロラ』を既に完成したものとして、あるいは「押井守の」作品として見ているからなのでしょう。