最近、暇を見つけては『ルパン三世』第1シリーズを見ていたのですが、それから劇場版第1作『マモー編』を見返してみたら、ものすごく腑に落ちるところが多くありました。「マモー編」は要するに、テレビ版第13話の「タイムマシンに気をつけろ!」を、第2話の「魔術師と呼ばれた男」のテイストに作り変えた話なんだ、と。
その勢いで「マモー編」の監督が脚本の『ボトムズ』も見ているのですが、主人公のキリコが頻繁に敵に捕まって拷問を受けるので、だんだん可哀想になってきました。もしかして、キリコって弱(以下略)。つまり主人公補正は大事だ、ということ。


もうひとつのブログを更新。今日は日本が連合国への降伏文章に調印した「降伏記念日」なので、それに関連して色々書きました。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080902
マックス・ウェーバーは「資本主義の精神」が西洋近代に固有のものであると考えましたが、そうすると、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が書かれた後で産業における近代化を達成した日本はいったい何なの、ということになるでしょう。日本の思想に商行為を合理化する思想は、あることはあるんですけど、それが西洋におけるプロテスタンティズムと同じ役割を果たしたとは考えられないわけですし。
そこでまあ、非常に逆説的ではあるのですが、「家制度」と「天皇制」という前近代的な存在こそが商行為を合理化し、近代化に寄与したのではないかという説を考えてみました。つまり、日本は近代化の課程において「資本主義の精神」から功利主義個人主義を切り離し、「家」や「国家」といった集合が達成するべき目標として文化的伝統と接合したのではないか、ということ。ここに「恩」や「世代間倫理」といった要素も付け加えられるんじゃないかと思うのですが、要検討ということで……。
何だか脈絡のない話をしているみたいですけど、僕の中では繋がっているのです。わかんねーという人はリンク先を読んでいただければと。


それと、『空の境界』巻末の笠井潔による解説を読みました。「新伝奇」のどの辺が「新」なのかは、とりあえず把握できたと思います。要するに従来の「伝奇」が天皇であったりその周縁としてのサンカであったりを描くことで「中心ー周縁」「日常ー非日常」の境界を強調してきたのに対し、「新伝奇」は『空の境界』というタイトルが示すようにそれらの境界を空虚なものにしてしまった、ということであると理解しました。エンディングを経て非日常から日常へと帰還したり、主人公がアウトサイダーに同調したりといったことは起こらない。日常はそのまま非日常だし、主人公は平均的な正義観を披露する。ごく大雑把に言えばそのような感じ。
読みながら思いついた反論としては
1.境界が空虚になったというよりは、境界に対する態度が「アイロニカルな没入」(わかっちゃいるけどやめられない)になっただけであり、境界はなお残っているのではないか。
2.そもそも、『空の境界』を伝奇小説の系譜に乗せる妥当性は、ギミックの共通点以外に無いんじゃないか。これって至極真っ当な「成長物語」ですよね?
これくらい。非常に良くまとまっているし、(笠井潔の評論にしては)読みやすいと思いました。