『空の境界 第五章』に関する雑感

1週間ほど前にテアトル梅田まで見に行ってきました。第1章を見に行ったときは東京まで行かなくちゃでしたので、今回は近場で済んでラッキーでした。
印象としては、とにかくわかりづらい!毒にも薬にもならない駄菓子みたいな台詞が多いというだけでなく、時系列が複雑に入り組んでいて、頭の中で再構成するのが結構大変。その手助けとして同じ構図、同じ台詞の場面が何度も何度も出てくるわけですが、それが同時にコルネリウス・アルバ蒼崎橙子の戦いその2の冒頭で観客を「えっ」と思わせるための伏線としても機能している、という点は上手いなぁと思いました。つまり、時間の入れ替えに観客を慣らしておくことで、再びアルバの前に現れた燈子が「過去の橙子」なのか「復活した橙子」なのか判断できなくなる、ということ。そこで別の場面に飛ぶ辺りがいやらしいですよね。
ただ、このわかりづらさの原因はストーリィ上の必要性によるものだけであるとは言えません。映画の冒頭でいきなり主人公の両儀式ハーゲンダッツを食べていたり、あるいは夕方の広場を映したシーンでは時計のアップから始まっていたりと、全体を通して場面転換直後のインパクトを重視するようなカットの繋ぎ方が非常に多く、第1章であれだけ多用されていた鳥瞰アングルも極端に少なくて(式と巴が敵地に乗り込むシーンくらい?)、そこがまたわかりづらいという印象を強めていると感じました。それだけに長さを意識してしまうのですが、幻惑的な映像にしたいというのが作り手の意図であるならば、それは十分に達成されたと言えるでしょう。


個人的には、第1章を見たときの感想にも書きましたけど、作画のレベルや尺の長さ以外はあまり映画らしくない、むしろ「長いテレビ」というべき作品だと思っています。今回は2時間という過去最長の長さであることも関係して、途中でアイキャッチまで入っている。でも、それは違うんじゃないかなぁという気もするんですよね。どうもテレビアニメの延長として作られているように思われます。音声の使い方も非常に大人しくて、フレーム外の音を増やしたり、シーンの境界を侵犯したりすればよりスマートに出来たのではないかと。
その他気になった点としては、単に作画のレベルが高かっただけでなく、第1章のハーゲンダッツや第2章の竹藪で幹也が走るシーンのような「作画の暴走」(予定通りなんでしょうけど)が全然なく、均整のとれていたことが挙げられます。この辺は好みの分かれるところですが……。
別の意味で気になったのは、橙子が荒耶に負けたとき、心臓を潰したけれど頭を潰すまで橙子は生きている、あとは好きにしろというわけで橙子さんの首が荒耶からアルバに渡されるところ。『空の境界』の世界においては心身二元論が採用されているだけでなく、魂(生命)は頭に宿るものと考えられているようです。言うまでもなく人間のパーソナリティを最も強く表しているのは「名前」であり、身体においては「頭部」であり、特に「目」の存在です。アルバは橙子の魂を殺すために、まず目を抉りました。それが最も効果的に人間存在に傷を与える手段だということを知っているかのように。
思うに、この『空の境界』で披露される主人公たちのメンタリティというのは、その衒学的な語り口とは裏腹にすごく「普通」です。巴は「家族の復讐」と「自分の存在を取り戻すため」、橙子は存在を象徴する「名前」と「目」を傷つけられた復讐としてそれぞれ戦いを挑みます(「私を「痛んだ赤色」と読んだ奴は〜」)。『ルパン三世』の劇場版第1作(通称「マモー編」)にも似ているかな。僕はいまだに「新伝奇」のどの辺が「新」なのか分からないのですが、誰か分かる人いますか?
最後はだいぶ筆が滑りましたが、だいたいこのような印象です。