表現の自由と図書館

図書館戦争』を見ていると「図書館隊って、外国から見れば完全に反乱軍だろ!政府もうちょっと頑張れ」と言いたくなるのですが、せっかくなので、表現の自由を守る上で図書館が果たすべき役割について理論的に考えてみたいと思います。

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表現の自由」について最初に考えるべき点は、自由と秩序の関係についてです。政府や規制団体は自由な表現に秩序という枠をはめようとする悪者だ、ホッブズ的な「原始状態」が最も自由な社会である、と言えるのかどうか。
確かに何でもできる可能性がある社会こそが真に自由な社会なのかもしれません。しかし、可能性だけあっても、それを実現する現実的な手段がなければ「絵に描いた餅」でしかない、とも言えるわけです。「全ての日本国民には軽井沢に別荘を買う自由がある。ただし金は出さない」がナンセンスなように。特に「表現の自由」の場合、それを発表する場の問題と、制作費を集めるための商業性の問題と切り離して考えることは出来ないでしょう。
例えば現在のテレビアニメの場合、過激な表現に対してはどこからともなくクレームが飛んできて、放送中止に追い込まれることがある。そのような状態では作品のスポンサーになろうという人が出てくるわけがないので、「自主規制」という秩序を受け入れることで作品を創出する現実的な手段を得ています。
このような「自由と秩序」の関係は、交通ルールと自動車の関係に喩えられるでしょう。交通ルールなんてなければもっと自由に車を走らせることが出来るかもしれない。しかし、そもそも交通ルールがなければ危なくて外に出ることも出来ません。僕たちは、交通ルールという秩序を受け入れることで、結果として行使できる自由の量を増大させているのです。


ここまで「自由は秩序の存在を前提としている」という当たり前のことを確認してきましたが、次に問題とされるのは秩序の質の問題です。秩序があれば良いというわけではなく、行き過ぎた自主規制が表現の幅を狭めるように、あるいは政府の規制がパターナリズムとして現れるように、悪い秩序はしばしば表現を萎縮させます。これを回避し、秩序を良い状態に保つためには何が必要か。まずは秩序を生み出す3つの主体「政府」「市場」「中間共同体」について考えてみましょう。


政府が生み出す秩序は「個人の権利保護」です。週刊誌や新聞のゴシップ記事を一応は規制するように、市場が暴走した際にそれを抑える力を持っています。また、「強い政府」として法による支配を中間共同体まで貫徹させることが出来ます。しかし、こうした特性はしばしばパターナリズムに転化し、過剰な規制を市場に対して押し付けることにもなり得るでしょう。
市場が生み出す秩序はそのまま「市場原理」です。市場の要求に従って表現者に資金を供給する役割を果たしますが、市場の暴走によって人権が損われたり、マイノリティの表現活動がその機会を失う可能性も存在します。
そして中間共同体についてですが、これについてはいくつかの説明が必要となるでしょう。中間共同体とは、ごく簡単な理解だと「市民と公共を媒介する自治組織」のことです。クラブ、教会、結社などが具体例として挙げられますが、どれも日本ではあまり馴染みがないですね。地縁や血縁によって結ばれた共同体がそうであるように、共同体全体の利益を確保するため外部に向けて働きかけたり、外部の暴力から構成員を保護したり、というのがその本来的な役割です。
表現の自由」との関わりにおいては、図書館組織が中間共同体の役割を果たしているのではないか、というのが僕の考え。つまり、政府の表現規制に対しては自己権益を守るための異議申し立てを行い、市場原理に対してはその中で生き残れない表現(学術書など)を保護します。ただし、その機能が行き過ぎると、『図書館戦争』に描かれているように、公正な市場原理や社会全体の公共的利益を無視し、自己の既得権を強硬に主張し、共同体の構成員を動員し政治的圧力をかけるという弊害をもたらすことになるでしょう。


以上で見てきたように、3つの秩序は互いにその欠点を補う、あるいは牽制しあう形で存在しています。
政府の行き過ぎた規制に対しては、市場からの反発と、中間共同体の内部倫理に基づいた権利要求が。
市場の暴走に対しては、政府の規制と、中間共同体による市場原理とは異質な原理に基づく表現保護が。
中間共同体の反乱に対しては、政府による法の支配の貫徹と、市場による中間共同体外での表現が。
これら三者の均衡の上に成り立つのが「良い秩序」であり、その中でこそ表現の自由が最大限に発揮されます。しかし、終身雇用制の中で構成員との繋がりを強めた会社組織や、自己権益の保持を優先する官僚組織、社会正義の概念を欠いたまま自己目的化した各種教化団体などが、ある種の中間共同体として三者のバランスを崩すほどの力を持っているのが現代の日本社会です。
それだけに、図書館が中間共同体としての本来的な役割―内部倫理の啓蒙と市場原理に基づかない表現保護―を果たすこと、そして政府が「強い政府」として表現の自由を末端まで貫徹させることが重要な課題であると言えるでしょう。