法と無責任

生活保護の申請をした女性(44)への職員のセクハラ行為をめぐる訴訟で敗訴し、110万円の損害賠償を支払った大阪府羽曳野市が、訴訟費用を除いて女性の手元に残った約24万円を「収入」とみなして生活保護費から差し引いていたことがわかった。専門家は「嫌がらせとしか思えない」と指摘している。
(中略)
女性の代理人羽曳野市に「24万円は女性の自立や更生に必要な費用とみなすべきだ」と抗議。「そもそも、訴訟で負けた市が勝訴した側から賠償金を事実上取り戻すのは信義則に反する」と主張している。
女性は朝日新聞の取材に「裁判で市が悪いと判断されたのに、お金を返す必要があるのか」と話した。
これに対し、羽曳野市の麻野博一・福祉総務課長は「生活保護受給者が得た保険金などについては、ふだんから必要経費を除いたすべてを収入と認定している。今回も同様の措置をとった」と説明する。
asahi.com:生活保護費から賠償金差し引く セクハラ敗訴の羽曳野市

丸山真男は『日本の思想』において、ヨーロッパやアメリカではいまだに「民主主義の理念とは〜」ということを議論しているのに、日本では戦後数年で「民主主義?もうわかっているよ」という雰囲気になってしまった。そういう「もの分りのよさ」が、良くも悪くも日本文化を形成する上での特徴となっている、という議論を展開しました。
法律の機械的な適用や、権力の「正当な」行使によって社会が不利益を被ることがあります。権力を行使する側は「ルールを守っただけだ」として、非難を免れようとする。そんな時、日本人の「もの分りのよさ」が顔を出し、まあまあと事態を収拾していまう。
ジャック・デリダは後期の著作『法の力』で次のようなことを主張しています。法に基づいたあらゆる決定は法の一般性を根拠にしつつ、一方でどのような規則や法則にも還元されない恣意的な要素を内に含むことで初めて実際的な効力を持ちうるのだ、と。カフカが『掟の門前』で描いたように、法の効力とは、実は法を超越した部分によって保たれているのです。
古いマルクス主義の運動家が「自分は理論を実践しているだけである」という意識に寄りかかることで現実に対する責任感を喪失したように、「自分は法を守っているだけである」という意識は、権力を行使する主体としての責任感、そして上記の「法の不可能性」に対する批判意識を鈍らせることになる、ということを覚えておくべきであると僕は考えます。


話は変わって、もうひとつのブログを更新しました。以前予告した通り、俗流フェミニズム批評の問題点について簡単にまとめたものとなっています。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080524
あくまでも「俗流フェミニズム批評に対する批判ということで。何にせよ、アニメならアニメ、小説なら小説それ自体に対する感受性を喪失した批評は、たまたま手近にあった対象を取り上げてみただけというやっつけ仕事でしかないと僕は考えます。
あと、以前の記事で大幅に加筆したものが2つあるので、改めてリンクを貼っておきます。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080503
「寺社参詣と拝観料について」。近世に入り、寺院経営が賽銭・拝観料に依存するようになる過程を追ってみました。拝観料というシステムを取り入れた最初期の例として金閣寺を挙げてみましたが、一番最初がどこなのか、と言われるとわからない。ご存知の方、教えてください。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20080413
「『ef - the latter tale.』デモムービーの分解と批評」。ちょっとだけ加筆。ゲームの発売はいよいよ来週です。当方、引きこもる準備は万全であります。なお、minoriのホームページでは発売までの日替わりカウントダウンボイスを公開中。

「第ニ弾は、つ□ がんばれ!“麻生 蓮治”編」

トークショーで「えふメモらじおはCD化しないんですか?」と訊かれた酒井伸和氏、「ニコ動に全部上がっているよ」「ニコ動から消えたらCD化すると思ってください」という返答には感動しました。