『狂乱家族日記』と「擬似家族」に関する雑感

ちょこッとSister』では天真爛漫な妹を、『sola』ではヤンデレ気味な姉を、そして今回の『狂乱家族日記』では暴走母親を描くノーマッド。次はきっとミス・マープルみたいなお婆さんが主役か、あるいはぐっと(年齢が)下がって『赤ちゃんと僕』みたいな話が来るに違いない……!
え、次回作は『夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜』だって?

狂乱家族日記 壱かんめ [DVD]

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微妙に可愛くない水銀燈が出てきたことなんかはそれほど気にならないのですが、どうも物語全体の薄っぺらさ、家族家族と連呼する説教臭さに過剰反応してしまう今日この頃。
とはいえ、例えば『CLANNAD』に見られるような天然の説教臭さとは異なり、『狂乱家族日記』は家族に関する言説の説教臭さを自覚してそれをネタ化していることから、ある意味では賢明、別の意味では姑息であると言えるのかもしれません。それだけに、たまにメッセージ性の強い台詞があると余計に反発を覚えてしまうわけですが……。

「絵だとか金銭だとか、そういう幻想には価値など無い。みんな幻だ。だがな、作り物だけど幻ではない。われわれの家族は幸福で価値がある。あの腐敗した天国には幻の幸福ばかりがあったけど、価値は無く、本物でもなかった」
「……」
「凰火、気づいているか?われわれはきっと世界で一番幸福だぞ!」
−『狂乱家族日記』第3話より、乱崎凶華−

「本物の家族」って何でしょうね?仮に、人々が安心して生活し、そして信頼できる人間関係の場を「家族」とするのであれば、その価値はあまりにも主観化され、感情に左右されることになる。要するに「好き嫌い」を基にした領域ということになってしまう。そしてまた「親しさ」だけで家族が成立するわけではない、ということを他ならぬ狂乱家族自身が証明している、とか色々。
多くの場合、家族関係は「公」によって規定されます。これは単に同性婚が禁止されているとか国によって子どもを養育する義務が課せられているとか、それだけの問題ではなく、家族という「私的」な領域がそもそも「公的ではない場所」として捉えられる傾向がある、ということ。例えば『家族計画』という擬似家族モノの傑作エロゲがありますが、あれもやはり「公」の世界に居られなかった人々(=社会不適合者)が生きられる場所として「私的」な領域、つまり家族が設定されているわけです。『狂乱家族日記』においてもこの考え方は引き継がれています。
別の言い方をすれば「公」によって排除されたものが「家族」であるわけですが、それによって、ともすれば家族関係において社会正義の概念が適用されなかったり、あるいは過剰な同質性を求められたり、といった問題が生じてくる。おそらく、現代的な問題意識から「家族関係」を描くのであれば、逆に「私」の側から「公」を規定するという視点が必要になるのではないか……ということを考えてしまう。
僕はそもそも「家族の愛情」だとか「家族の絆」といった概念自体、誰かによってボロクソに貶されて然るべきことであると思っています。何事もバランスが重要。あと、こんなことを書くと「昔、何か嫌なことでもあったの?」と訊かれそうですが、特に何もありませんので。