『紅』―嘘と暴力

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紅 1 [DVD]

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番組改変期のころになると決まって「今期は不作だ!」なんて文句を言いながら、いざ始まってみると必ずひとつかふたつは素晴らしい作品があるんですよね。例えるなら、毎年現れる「十年にひとりの逸材」みたいなものでしょうか(何それ)。
で、今期は『紅』ですよ。プレスコ方式で収録された音声と機敏なカットの切り返しとで描かれる、会話シーンの楽しさといったら!


上に挙げた第1話の真九朗と紫が初めて会うシーン、これは近来希にみるほど緊迫感のあるシーンでした。ふたりの顔をロング・ミディアム・クローズアップと交互に繋いで場面を盛り上げていき、カットの長さも距離に合わせて縮めていく。この切り替えしはものすごく上手い。
極端なほどに固定された画面と、繰り返し登場する同じアングル。その中で少しずつ変化していくキャラクタの表情やささやかな仕種が、ささやかであるだけにより一層強く僕たちに訴えかけてきます。この面白さを逆転させたものが、第3話の真九朗・紫・夕乃の会話シーン。三人が出会った途端にカメラは引いた位置に固定され、これまでで最長のカットが始まります。

キャラクタとの距離感、やや大げさな身振りからは演劇的な印象を受けます。このシーンの最後から真九朗の「嘘」が立て続けに明らかとなることは、あるいは偶然かもしれませんが、面白い一致ですね。

夕乃「こういうときは何をするべきでしょうか?」
真九朗「嘘をついて、すいませんでした」

この作品において問題とされるのは、単純な「嘘」というよりはむしろ、行為の善悪とその動機はいかに関連付けられるか、という点ではないかと思われます。この後のシーンで見られる、争いをさけるために目の前の悪を見逃した真九朗と、正義を行使した結果として真九朗を巻き込んだ紫との対比は興味深いものがあります。それと同じように、第2話の以下のシーンも注目に値すると言えるでしょう。

真九朗「あ、痛いのか?さっきは強く叩きすぎたかな……。ごめんな」
紫「あやまるな」
真九朗「え?」
紫「真九朗が言ったことは正しい。それを教えるために叩いたのだろう?だったら誤るのは変だ」
真九朗「そうか……そうだな」
紫「さっきは痛かったけど怖くはなかった。不思議だ。痛いことはみんな怖いことだと思っていた。真九朗と一緒にいるのも悪くないな」

それと対比される形で描かれるのが、真九朗の「すいません、仕事なので」という台詞から始まる暴力シーン。

店長「化け物だ……」

同じ暴力行為が、一方では動機の純粋さから正当化され、他方ではその無機質さから恐れられる、という不思議。もっとも、万葉集の昔から日本人の倫理観の大半は「清明心(私欲の無い心)」で言い尽くされるそうですが……。
もうひとつのポイントは「家」という問題。物語は真九朗を中心とした各キャラクタとの家族的つながりが仕事や義務との相克から危機に瀕することで動きだし、それを取り戻すことで落着します。「家から始まり家に終わる」現代のドラマは、「義理と人情」を中心にすえた近松門左衛門の時代からあまり変わっていないような。
では、今回はこのくらいで。