雑記11/25

闇鍋に参加しました。実は以前からやってみたかったのです。
当日は7畳の部屋に10人以上が集合し、各自が持ち寄った食材を並べていきます。統一感は全くありませんが、煮ても明らかに食べられないものはない、という感じ。これは案外と美味しくいただけるのでは?と思いました。このときはまだ……

ええ、本当に美味しかったですよ。みんな「普通に美味しくて面白みに欠ける」と言いながら食べていました。変なものを入れれば、入れた本人もそれを食べることになる。誰も無茶なことはしないはず。
誰かが野菜ジュースを入れるまでは、そう思っていました。
所詮は色の付いた砂糖水か、と思わせるのに充分な甘ったるい匂い。それを打ち消そうと匂いの強いものが次々投入された結果、臭気がオーケストラを編成して襲ってくるような鍋が完成しました。さすが「理外の理」に生きる人々だけのことはあります。その中に蟹を一匹入れてみると、「産業廃棄物の中でも蟹はたくましく生きています」というか、公害の悲惨さを訴える写真みたいな構図に。
もちろん作ったものは食べきりました。
「食べ物を粗末にして落ちる地獄ってあるのかな」
「蟹に追いかけられる地獄とか」
「蟹に手足を一本一本毟り取られて……(蟹の身を毟り取りながら)」。
全く無駄なことをしたなという感じがして、楽しかったです。そして二度とやらないでしょう。

狩野探幽の弟で、狩野尚信の作品に「富士見西行図」というものがあります。画面の右側にむらむらと富士山の輪郭を、左側に腰を抜かした西行を小さく描いたもの。使われた墨はごくわずかで、あとは全て余白。巨大な富士と小さな西行という空間構成の大胆さが素晴らしい。
で、全然関係のない話なのですが、以前『バンブーブレード』というアニメの内部文書が流出して制作費が暴露されたときに「こんな少ない予算であのクオリティは凄い」みたいな話をあちこちで耳にして、何だか嫌だなぁ、と感じたときのことを思い出しました。
読者は作者を志向する。だから、時間をかけて作ったもの、お金をかけてつくったものに残る「努力の跡」を評価したくなる。
けれども、読者は読者であって、究極的な目的は作品を見ることにある。作者について知ることも、製作の裏事情を知ることも、全ては作品固有の探求に送り返されてこそ意味がある。作者に同情したり、簡潔な表現を「手抜き」と非難して作品評価を歪めるようなことは本末転倒だ、というのが僕の考え。