『CLANNAD』プレイ日記・その5

CLANNAD -クラナド- 初回限定版
どうやら僕は、アニメでもゲームでも定期的に感想を書くということが苦手らしい、と今更気付いたのでさっさと終わらせましょう。今回は伊吹風子シナリオと一ノ瀬ことみシナリオについて。
まず伊吹風子ですが、設定は『Kanon』の月宮あゆとほぼ同じ。主人公や一ノ瀬ことみが「家族」という概念に束縛されていたのに対し、伊吹風子の場合は逆に家族を束縛する立場に立っているわけで、「家族」の裏表を描き出すという意味では結構重要なシナリオかもしれません。
主人公が何もしなくても風子が目覚めることは、アフターストーリィで証明されています。このシナリオの主役は、風子ではなく姉の公子先生の方なのでしょう。
眠り続ける風子を置いて、自分だけ幸せになることは出来ないという公子先生。眠っている風子も先生の幸せを願っているよ、と精神的な繋がりを重視する風子シナリオと、あくまでも現実世界で共に暮らす相手から幸せになってと言って欲しいアフターストーリィの違い。
この違いというのは、要するに「俺たちは離れていても(たとえ死別しても)心は繋がっているんだ」という幻想を抱けるかどうかであると思います。シナリオの要点もそれをプレイヤに信じ込ませることが出来るかにかかっているわけですが、その辺がちょっと弱かったんじゃないかな、と。


次、一ノ瀬ことみシナリオについて。完成度の高さではいまひとつですが、クライマックスの印象という点では最高ですね。『AIR』よりも泣いた……。
ある意味では伊吹風子シナリオの逆なんですよ。すでにいなくなった人と、まだそこにいる人。風子シナリオではいなくなった人の視点から、ことみシナリオではまだそこにいる人の視点から互いの絆を確認したわけですが、この違いは決定的な違いであると思います。
はっきり言えば死別してしまったもの同士の絆は幻想でしかないわけですが、幻想だからこそ価値がある、とも言えるわけです。例えばことみの両親が残した手紙には、「過去」の両親が「現在」のことみにメッセージを伝えるという、時間を横断する性質があります。このときにことみの両親は「過去」の存在から「永遠の今」に生きる存在となったのではないでしょうか。
長い時間をかけて旅をしたスーツケースという物語が、永遠という幻想をいっそう引き立てます。本当に素晴らしいクライマックス。
ただ、一ノ瀬ことみというキャラクタ造形はステレオタイプすぎると思います。勉強はすごく良く出来るけど、それ以外はイマイチ。完璧超人を嫌った時代の名残では?