雑記9/3

松本俊夫『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』を読了。

映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー

映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー

初版は1963年ということでかなり古い本ですが、解説で中条省平が書いているように「主張も、論理も、言葉も、まったく古びていないことに驚嘆した。やはり、この本は何十年たっても輝きを失うことのない古典だったのだ」。
映画批評家であると同時に実作者でもあった著者の課題とは、簡単に言えば映画固有の表現を模索することにありました。
映画というのは世界の一部を切り取る=世界を見るメディアであると同時に、映画作家が世界をどのように見ているのかを映す=自分を見るメディアでもあるわけです。この主観と客観の中間において「見えないもの」を「見よう」というのが本書の中心主題であると言えるでしょう。
松本氏の考えだと、平凡に見える日常においては「グロテスクなもの」が抑圧・隠蔽されています。それを「フレーミング・モンタージュ・コンストラクションの三つのエレメント」を駆使して解放することが映画の固有性である、と。
その意味ではダダやシュルレアリストとも共通する点があります。ただ、対象をオブジェ化すること自体は良いとしても、そのオブジェを眺める主体が確立されていない、という点で彼らに対しても批判的です。
イタリアン・リアリズムの作品を取り上げた際の言葉が、松本氏の「見ること」と「主体化」に関する考えを最も良く現しています。

ところで、映像が「凝視するカメラ」を意識させるということは、いいかえれば、映像そのものによって対象が主体化され、したがってまた映像そのものによって主体が客体化されているということにほかならない。そのことは、対象にたいする主体の意識が確立しているということを意味している。

こうして「見ること」の意味を強調しつつ、「見ること」の対象となる社会(1960年代の話ですが、現代においてもそっくり当てはまるでしょう)について言及します。

太平ムードの今日では、すべてがのっぺりした「日常性」におおわれていて、一見現実はドラマチックに「現象」していない。しかしむろんドラマの素材がなくなっただとということではさらさらなく、現実の矛盾はよりいっそう複雑になって、いわば「内面化」しているだけである。問題はそのような日常性の裂け目に、いかに非日常的なドラマを「見る」かにある。ドラマがないということはそれ自体もまた、その意味において、きわめて今日的なドラマになりうるというのが、現代の逆説にほかならない。

「見る」ということ自体をドラマ化させようとする極めて意欲的な試みであると同時に、現代の所謂「日常を描いた」作品を読み解く上で重要な視座になりそうですね。