日露戦争後の農村問題・その1

前回と前々回は日比谷焼討事件に焦点を当て、政府の期待とは裏腹に大多数の「愛国者」たちが政治主体として未熟であることが日露戦争を契機として暴露され、その後に国民教化運動が行われる原因のひとつとなった、という話をしました。
今回からは国民生活の舞台である「農村」「都市」、その両者に関わる「軍隊」「労働」に視点を移し、生活の実態と国民教化運動の展開を見ていこうと思います。最初は「農村」から。


例えば丸山真男のような「進歩的文化人(あるいは近代主義者)」にとって、農村とは前近代の象徴であり、人間関係によって秩序が成り立っている閉鎖的な社会でした。しかし、それはあくまでも当時の支配体制の「こうであってほしい」という要望であり、実際の農村は都市から押し寄せてくる近代化の流れとそれを押し留めようとする支配体制とのせめぎあいの中で存在していたと言えるでしょう。
日露戦争後の農村が最初に直面した問題は、農村への資本主義の浸透と都市への人口流失でした。まず前者については

「藁筵は備後表となり、是までは村中に一二を以って数えし急須や茶碗が、毎戸に備えざるものなく、魚燈油、菜種油は石油油となり、丸心のランプとなれり、東隣の娘がモスリンの帯を締めて都会の見物に出ずれば、西隣の細君は深張の蝙蝠傘をさし人力車に乗りて買物に行く、ドブロクに舌打鳴らせし村のものの会合は、宴会と称して瓶詰の正宗ならずば飲まれずなり、農民生活の程度は非常なる速力をもって高まり来れり」
−織田又太郎『農民之目醒』−

といわれるように、都会の商品が市場を求め農村へと進出してきたことでその生活レベルは急速に向上します。しかし、それに見合う所得が農民に存在していたわけではなく、無理な消費によって経済的苦境に立たされる農民も少なくなかったようです。東京農大の初代学長・横井時敬はそのような状況について

「是等の広告、誇張も誇張、人をして買わずんばあるべからずの感を起こさしむる。
田舎の奢侈の加わる所以、その疲弊の漸く進む所以、広告の媒によることも少なからずあろう」

と、広告に原因を求めた上で風俗の退廃を訴えています。
それに対して政府が取った対策は非常にシンプルで、質素倹約を訴えるというものでした。その旨を受けて行われた様々な国民教化運動、例えば明治後期に行われた地方改良運動においてスローガン的な役割を果たした戊辰詔書では

戦後日なお浅く庶政益更張を要す。宜く上下心を一にして忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し、華を去り実に就き、荒怠相誡め自彊息ざるべし」

つまり、しっかり働いて無駄遣いするなよ、という内容のことが書かれており、また、大正版の地方改良運動というべき民力涵養運動でも、その要綱には

勤倹力工の美風を作興し生産の資金を増殖して生活の安定を期せしむること

と書かれています。地方改良運動・民力涵養運動については後述しますが、これらの運動が報徳会という二宮尊徳の精神を理想とする団体によって推進されていたことからも、「農村への資本主義の浸透」「過剰消費による農村の疲弊」が運動の直接的な動機のひとつであることがわかるのではないかと思います。


長くなったので今日はここまで。次回は都市への出稼ぎ問題などを取り上げて、それから地主・小作の関係辺りに踏み込んでいく予定です。