愛国心と政治・その2

愛国心と政治・その1 - tukinohaの絶対ブログ領域の続きです。今回も住友氏の論文を下敷きに進めて行きます。
前回の内容をまとめると、明治政府が政治主体として期待したのは、地域や政党の利益ではなく、「愛国心」によって「一国全体の利益」を考える人たちであった、ということでした。
しかし、まさにその「愛国心」のある人々が政治主体として未熟であることが暴露され、その後の地方改良運動や民力涵養運動など国民教化運動が行われるようになる原因のひとつとなった事件があります。それが「日比谷焼打事件」。
時代は少し遡りますが、日清戦争の祝勝会において勝利の喜びに沸く国民の姿は「唯自家歓喜の情を漏らしたるに過ぎざる」だけであり、「千様万種の私情」があっても「一の民意なし」と呼ばれていました(「東京市祝捷会」『都史資料集成第1巻』)。そして日露戦争の祝勝パレードや各種催しはその規模を遥かに上回り「老若男女を問わず総て快哉を叫びたる」(『風俗画法』)と言われるように、国民感情の爆発する場と化していたのです。
そこで東京市日清戦争祝勝会の反省を踏まえ、祝勝会参加者に厳格な参加資格を設け、「歓喜の情」を爆発させる群衆の出入りを禁止します。つまり、戦勝による国民的一体性を感じていた国民を非「市民」、すなわち無秩序な群衆として排除していく態度を取ったのです。
さて、その後ロシアから賠償金が取れないことが判明したために、各地で講和反対集会が開かれます。それが都市騒擾に発展することを恐れた警察は、集会が行われる予定の日比谷公園を封鎖し群衆の侵入を防ごうとしました。しかし、このような処置がかえって群衆の反感をかい、大規模な騒擾事件へと発展することになります。
群衆は「国民のお通りだ」と叫んで市街鉄道を妨害したかと思えば、他方で宮城前広場に集まり「君が代」を斉唱する、という行動を起こします(『所謂日比谷焼討事件の研究』)。少なくとも彼らの主観においては、非「市民」ではあっても「愛国者」であることは疑いようもなかったのです。
以上のような事件にはいくつかの新しい意義が見出せるでしょう。まず第一に、日比谷焼打事件において群衆を煽動した者のように「世論(公憤と言い換えてもよい)」を捉えそれを代表するものが社会において急速に求められるようになったということ。第二に、政治主体としてではなく、国益を要求する消費者としての「国民」が可視化されたということです。
日露戦争には様々な歴史的意義がありましたが、国家予算の8倍の費用と日清戦争の5倍の死者をだしたという犠牲の大きさ、それ自体が犠牲に見合った「国益」を要求する権利要求団体としての国民を生み出したことに大きな意義があったと言えるでしょう。しかし、それでは都合が悪いということで、国民の国家に対する献身性を高めるために様々な施策が行われることになります。
と、今回はここまで。次回は日露戦争後から第1次世界大戦にかけての都市と農村の実情、その後は大正デモクラシーの歴史的意義をやります。