地の文が信用できない『涼宮ハルヒの溜息』

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

いやー、鶴屋さんは素敵なキャラクタですね。笑い声の表現に「とわっはは!」なんて言葉を使うの、初めて見ましたよ。むろん松岡由貴ボイスで脳内再生しながら読んでいます。うん。まあそんなことよりハルヒが可愛いぞ、どうなってるんだ!本当にどういうことだろう責任者出て来い。やんややんや。
ネタバレなので詳しく書きませんが、キョンハルヒが2人とも素直になれない思春期モード全開であることが克明に描写されており、恋愛小説を読んでいるような気分になりました。ま、偉大なる筒井康隆先生も「SFのSはscienceのSではない。SFのSである」と仰っているので、むしろサイエンスっぽい説明セリフを減らしてくれとさえ思いました。
で、全開から引き続きキョンの一人称文体についての話。『憂鬱』のときに「地の文とセリフが区別されないことがある」という話をしましたが、『溜息』では結構変則的な例を見つけることが出来ました。キョンと古泉の会話シーンより抜粋。

「我々の理論が絶対的に正しいとは僕も思いません。(中略)どこかに寝返ることもできません。白のボーンが黒側に移ることはできないのです」
オセロか将棋にしろ。
「あなたには無縁のことでしょう。涼宮さんにも。そのほうがいい。特に涼宮さんには永遠に知らないでいて欲しい。(中略)ああ、もちろんあなたも」
「なぜ俺にそんなことを教える」
「口が滑ったんですよ。(中略)どちらにせよ、つまらない話ですよ」
確かにな。全然面白くない。

おそらく「」で括られたセリフに関してはそのまま読めば良いのでしょうが、そうではない、地の文で受け答えを行っている部分に関してはどう解釈すれば良いのでしょうね?そもそも使い分ける基準は何?とか、よくわからない文体です。
とりあえず今の時点で言えるのは、地の文を真に受けてはいけない、ということくらい。私たちは語り手であるキョンの目を通して作品世界を見ることになりますが、キョンの目はあれやこれやで曇りっぱなしだ、と。