筒井先生も読んだというので今さら『涼宮ハルヒの憂鬱』

現在、書店で販売中の「群像」に東浩紀×筒井康隆対談が掲載。
東は例によって例のごとく「ゲーム的リアリズム」を持ち出すのだが。
そんなのは、どうってことがないので、いいのだが。
最後の方で筒井康隆が、東の言葉を受けて、ハルヒシリーズの最初の方の作品を読了。
涼宮ハルヒの消失」が一番面白かったと記述していた。

発売中の「群像」で、筒井康隆が「涼宮ハルヒの消失」が一番面白いといってる ( 小説 ) - 涼宮ハルヒと僕の憂鬱 - Yahoo!ブログ

わが青春時代の神すなわちゴッドである筒井康隆先生も読んだというのであれば、私もいいかげん読まなければなるまい、というわけでシリーズ第1巻を読了です。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

「東中学出身、涼宮ハルヒ
 ここまでは普通だった。真後ろの席を身体をよじって見るのも億劫なので俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
さすがに振り向いたね。

容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群と完璧超人な涼宮ハルヒ。ただひとつ、非日常の世界に対して異常な憧れを持っていることを除いては。
そんな彼女はこの世のミステリィを探すため、適当にメンバーを集めて「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団(略してSOS団)」を結成します。ところがその適当に集めたはずのメンバーたちが、宇宙人、未来人、超能力者とハルヒが求めた「非日常的な」連中に他ならなかったのです。ハルヒ本人だけがそのことを知らない……。
SF?萌え?ラブコメ?何でもアリの日常で非日常な学園ストーリィ!
というわけで割と面白かったですね。内容についてはたぶん続きを読むので後に回すとして、今回は語り手であるキョンの一人称文体について。
この作品においてキョンは多くの場合、過去形を用いた語り、つまりはすでに過ぎ去った出来事を回想するように語っています。そのため物語と語り手の間に取られた一定の距離感、というのが様々な解釈を生み出す下地になっているのではないかと。
しかし全編に渡ってそうであるわけでもなく、

「ここ、SOS団。あたしが団長の涼宮ハルヒ。そこの3人は団員その一とその二とその三.ちなみにあなたは四番目。みんっな、仲良くやりましょう!」
そんな紹介ならされないほうが遥かにマシだ。解ったのはお前と転校生の名前だけじゃないか。

のようにキョンの当事者性が強い場合には独白が用いられたり、あるいは

「俺の見立てでは一年の女の中でもベスト3には確実に入るね」
一年の女子全員をチェックでもしたのか。
「おうよ。AからDまでランク付けしてそのうちAランクの女子はフルネームで覚えたぜ。一度しかない高校生活、どうせなら楽しく過ごしたいからよ」

と、地の文とセリフが区別されないことも。
読者は物語とどれくらいの距離を取ればよいのかということを、文体によって優しく誘導しているのではないかと想像。あと、感情を抑えた「軽い」一人称の中に、ある種の「うさんくささ」を感じます。「キョンめ、気のない振りして内心では朝比奈さんに×××××(自主規制)なんだろ!」みたいな。色々邪推の出来る文体ですね。