マスコミの相似形としての「痛いニュース」

朝日新聞を「マスゴミ」呼ばわりしている人が産経新聞の記事に肯定的なブクマをしているのを見かけてドン引きすることはしょっちゅうありますが、「痛いニュース」のマスコミ批判というのもそれに似ているなぁ、と思う今日この頃。
マスコミが大衆批判をしても自分が大衆の一部だと自覚している人はほとんどいないから誰にとっても耳障りが良いし、それに政府批判がくっついても(最近の若者の公共マナーがなっていないのは教育が悪いからだ、みたいな)、批判の内容は政府にとっても都合が良いので問題はない、というような、本当に困る人は誰もいない話である場合がほとんどです。いや、むしろ「主流批判の形を借りた主流イデオロギィの再生産」というのがその実態ではないかと。「日本はもう終わりだ。海外に逃げろ」という意見は絶対に載らないでしょう?新聞の投書欄なんてその最たる例で、「意見を言う自由を与えていますよ」というパフォーマンスにもなって一石二鳥、というマスコミ文化の極みであると言えます(皮肉)。
マスコミを批判するネットの言論にしても「マスコミ的なあり方」は克服出来ていないように思えます。「痛いニュース」を見ていると特にそういう印象を受けますね。社会批判をしても、社会にとって(言い換えるなら自分を含めた多数派にとって)都合の良い意見しか出てこない。成熟したメディアには「自らの傷を抉り出すような」自己批判が必要となりますが、それが出来ないという点でネット文化もマスコミも大差ないな、と思うわけです。