国内問題としての「対外戦争」

『日本が侵略戦争したから、日本が悪いんだ』って思うのは間違えなんですか?
どうして日本があんなに侵略戦争の戦線を広げられなければいけなかったの?
どうしてあんなに侵略戦争で沢山の犠牲者を出さなければいけなかったの?
中国だけでも三千万人の犠牲者だそうです。
いろいろヘリクツを言う前にやっぱり日本としては反省しなければいけない点は多々あるのではないでしょうか?

『日本が侵略戦争したから、日本が悪いんだ』って思うのは間違え… - 人力検索はてな

ネット言論では、第2次世界大戦について嬉々として語る人はたくさんいるのに自由民権運動だとか大正デモクラシーについて語る人は全然いないという不思議。みんな「政治の道具」としての歴史にしか興味ないのかなぁ、と時々感じます。床屋政談みたいに歴史問題を語っても別に悪くはないんですけど、横から「いや、それは間違ってるだろ」と突っ込まれた時「解釈の問題だ」で打ち切られてしまうのがどうも。息苦しい。
ま、それはさておき。
質問に関連した話をすると、まず対外戦争は国際問題であると同時に国内問題でもあるというあたりまえの認識に立つ必要があります。回答の中にはそこまで踏み込んだものはひとつもありませんでしたが、近代の戦争は偉い人が「やるぞ!」と言ったからといって簡単にできるようなものじゃないのですから、そこは絶対に外してはいけません。
「天才の足を引っ張る事しか出来なかった俗人どもに何ができた? 常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ!!(パプテマス・シロッコ)」というのはギャグですよ。
そこで「戦前・戦時中の日本の社会情勢」について軽く書いてみようかと思います。手持ちの史料が少ないので内容が薄いのはご容赦ください。ちなみに、史料の引用は読みやすいように片仮名を平仮名に直したりしています。


まず1920年代から30年代にかけて、三菱・川崎争議に代表されるような社会運動の先鋭化、金解禁や世界恐慌による農村の荒廃など多くの社会問題が表面化してきました。特に後者が深刻で、農村の中のプチブルが過激な方面に走ってしまったんですね。その代表的な例として橘孝三郎の「農本主義」が上げられるでしょう。

唯愛国革新の断行あるのみ。
生命に価するものは唯生命を以ってのみすべし。日本愛国革新者よ、日本愛国革新の大道の為に死を以って、唯死を以って立て。
― 橘孝三郎『日本愛国革新本義』1931年より ―

この手の急進的な国家主義が足元から沸きあがってきて、それが政党批判、ひいてはテロへと繋がっていったわけです。こうした社会運動に対してどう対処するのか?というのが政府だけでなく軍部にも共有された関心事でした。
で、みんな大好き石原莞爾はこんなことを書いています。

戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は戒厳令下に於いて各種の改革を行ふべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙に自然的に之を実行するを得べし
― 石原莞爾『満蒙問題私見』1931年より ―

戦争が国内問題でもある、という意味がお分かりいただけでしょうか?大東亜共栄圏のようなイデオロギィでは片付けられない「歴史の必然」のようなものがあると僕は思いますね。
ちなみにその「大東亜共栄圏」ですが、「創氏改名」「日本語の強制」の様なイデオロギィ的なもの以上に「作付けの強制」「鉄道敷設のための労働力の徴発」「満州への農業移民の指導」あたりが思いっきり反発をくらったんじゃないかな、と。
確かにインドネシアをオランダの支配から解放したとして、現地でも当初は日本軍を歓迎する動きがあったわけです。でも現在では「侵略」として捉えられている。それにはしかるべき理由があるわけで、安易に「歴史観の違い」や「歴史解釈の違い」に落とし込んではダメでしょう。
歴史相対主義については内田樹先生が上手く書いているのでオススメです。
http://blog.tatsuru.com/archives/000712.php
ここまでが議論の前提になる話なんですが、疲れたので続きはまた今度。