ヌーヴェルヴァーグの作家たち・その2『大人は判ってくれない』

ヌーヴェルヴァーグの作家たち・その1『恐るべき子供たち』 - tukinohaの絶対ブログ領域の続きです。
ヌーヴェルヴァーグが保守化したフランス映画への反発から生まれたということは先の記事で述べましたが、ヌーヴェルヴァーグの映画には具体的にどのような特徴があるのでしょうか?という話を今回はしてみようと思います。
まず第一に、軽量のカメラを駆使した自由闊達な撮影法というのが挙げられるでしょう。スタジオを飛び出し、現実の街の姿をつぶさに、そして様々なアングルから捉えること。郵便配達用のカートを使った移動撮影など、技術的な創意工夫がヌーヴェルヴァーグ作品には見られます。
作品のテーマは当然バラバラなのですが、それらに一貫して見られるドキュメンタリィ的な要素も特徴的です。「子供らしい子供」を避けるように子供の暗い部分も描こうとするトリュフォー、俳優に撮影当日まで台本を配らず即興劇の要素を取り入れ、さらにはそれを隠し撮りするゴダール。彼らはフィクションとドキュメンタリィの境界をしばしば越えようとします。
そしてもうひとつ、おそらくはヌーヴェルヴァーグ作品から感じる「落ち着かなさ」の正体であろう、映画というメディアへの関心が決定的に重要なものだと僕は思います。
ちょっと回りくどい言い方をしましたが、要するに「お前は映画を見てるんだぞ」というメッセージを映画の中に組み込むんですね。決して映画は「別世界の話」ではないのだ、と。そのことを観客に伝えるために、俳優にカメラ目線をさせたり、あきらかに演技だとわかる演技をさせたり。そうすることで「いいお話だったね」で終わらせない、というのが彼らのやり方です。
ヌーヴェルヴァーグの特徴については次回さらにつっこんだ話をするとして、今回はその代表的な作家のひとりであるフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を紹介しましょう。

トリュフォーの長編デビュー作であるこの作品ですが、まるで私小説のような日常性が特徴的です。それもそのはず、トリュフォーの自伝的作品とのこと。
主人公は大した不良でもないのに叱られ、自分は両親から愛されていないのだと傷つくアントワーヌ少年。彼が傷ついて、傷ついて、また傷ついて、最後に何かの決意を秘めて海岸へと走ってくシーンで話は唐突に終わりを告げます。
広い世界には興味がない、とでも主張するようにカメラはいつも中心に人間を捉えています。政治や社会など巨視的な視点を持とうとしないのはヌーヴェルヴァーグ全体の特徴ですが、トリュフォーはその中でも極端な方でしょうね。徹底して人間(特に子供と女性)を叙情的かつ詩的に描いていくこと。それがこの監督の持ち味です。
ただ、トリュフォー作品の子供が素直に感情移入できるような存在かと言えば、そうではありません。この作品のひとつ前に公開された短編『あこがれ』で特に顕著ですが、子供のわがままさ、嫌らしさというのもしっかり描かれている。同じ人間が時と場合によって良い人だったり悪い人だったりする。そういう複雑な人格を複雑なまま描くことがトリュフォーの作風だと言えるでしょう。
クライマックスシーン。海岸を駆け抜けたアントワーヌ少年は立ち止まり、じっとカメラを見つめます。観客を挑発しているようでドキリとするシーン。是非、そこに込められた声なき声を聞き取ってください。
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