近代の奈良と文化財保存について〜廃仏毀釈とか、その辺の話〜

明日から奈良に行ってきます。法隆寺に行ったり、慈光院に行ったり、鹿のコスプレをして奈良公園の鹿と角突き合ったりしてくる予定。
その間ブログを更新するのは多分不可能なので今日のうちに何か書いておこうと思ったのですが、恥ずかしながら時間がありません。そこで、一緒に奈良へ行く人たちに向けて書いたコラムを転載しておくことにします。な、何という手抜き……!
気楽に書いたものなので、気楽に読んでいただければ幸いです。

 
近代の奈良と文化財保存について〜廃仏毀釈とか、その辺の話〜
文責:tukinoha(所属 オタク・野川さくらファン・水銀党)

 1.はじめに
法隆寺は世界最古の木造建築!すごい凄い。興福寺なんて中世では大和国守護ですよ。まったくもって、奈良県からは古代・中世のロマンを感じますね。
……いや、ちょっと待てよ、と。古代や中世において奈良の大寺院が強い権力を持っていたことは良くわかる。けれど、それらの寺院は明治初頭の廃仏毀釈によって大ダメージを受けているわけです。そこからどう立ち直ったのか、ということについては意外と知られていないのではないでしょうか。明治以降に整備された自然公園なんかについてはもっと知られていないでしょう。
高木博志氏の言葉を借りるなら「法隆寺興福寺東大寺等の名刹に代表される南都仏教は、あたかも古代以来殷賑を極めたごとく今日存在するが、実は1880年代以降に創り出された」(「1880年代、大和における文化財保存」)という、その過程を追っていきたいと思います。


 2.廃仏毀釈の影響
まずは奈良の大寺院が廃仏毀釈によってどのような影響を受けたのか、出来るだけ具体的に見ていきましょう。
もっとも大きな影響を受けたのは興福寺です。明治四年に境内以外の全領地を没収されただけでなく、旧一乗院門跡が奈良県庁として借用されたりして荒廃し、僧侶が全て春日大社の神官になってしまい、興福寺は廃絶することになりました。五重塔が売りに出されたのもこの頃で、値段は50円とも、25円とも、5円とも言われています。買主は五重塔を焼き払って金具だけ回収しようとしたのですが、類焼の危険があるため破談になったとか。
東大寺だと鎮守八幡の御神体佐保川に捨てられるという被害を被っています。また、大仏殿の建築は老朽化に伴って早くから修復の必要性が言われてきたにも関わらず、かなりの間放置されていました。
法隆寺法隆寺で、真言宗の末寺となるわ、伽藍は老朽化するわで大変だったようです。
その他の寺院についても、雑誌『史蹟名勝天然記念物』の編集責任者である戸川安宅は、1911年に「貴重なる奈良の史蹟は将に廃滅に帰せんとす」という巡見記を載せています。それによると、民有地の遺物が大阪あたりの古物商によって売買され、大安寺の礎石は僅かに一個しか残っておらず、山田寺の磚仏が村童の玩具になったり、磚仏(せんぶつ)を売り歩く小学生に戸川が遭遇した経験などが書かれています。当時の文化財に対する意識はその程度のものだったということですね。
では、これら廃仏毀釈でダメージを受けた寺院が復興し、文化財保存の機運が高まりを見せるようになる理由とは何だったのでしょうか?次節以降でそのことに触れていきます。


 3.行政レベルでの文化財保存
そもそも明治政府は、それまで「藩」や「村」レベルでの共同体意識しか持っていなかった人々を教育して「国民」に仕立て上げようとしたわけです。これには官僚制創出のためとか国家神道との関わりとか色々理由があるのですが、今回は割愛。興味がある人は自分で調べてください。で、「国民」を創出するための強い武器になるのが「国民全てが共有する歴史」というフィクションでした。「両方の親同士が友人だった」とか、何となく親近感がわきませんか?あれのすごいバージョンです。ただ、北海道や沖縄生まれの人は一回くらい「日本史なんて俺たちには関係ないよ」と言ってみても良いんじゃないかな。
閑話休題奈良県における文化財保存は明治十年の明治天皇大和国行幸を契機として本格化し始めます。その頃は天皇陵の調査や南朝に関係のある史蹟の保存がメインですね。「天皇家はこんなに古い歴史があるんだぞ」とか「こんなに立派な家臣がいたんだ。国民はみんな見習いなさい」というアピールをしたわけです。
そこから保存対象は徐々に広がっていきます。ごく単純化すれば「天皇家最高!」から「日本にはこんなに凄い文化財がたくさんあるんだ!日本文化最高!」へのシフトと言ったところでしょうか。ナショナリズムの高揚とあわせて考えると面白いかもしれません。例えば日本の文化財を東洋美術史の中に位置付けようとしていたのが、徐々に東洋美術に対する日本美術の優位性を説く方向へとシフトしていく話とか。
話を東大寺法隆寺の話に移しましょう。法隆寺は明治初期に、東大寺は中期に寺宝を皇室に提供することで補助金を貰い、それで伽藍の修復を行っています。何というか、皇室御物を中心としたヒエラルギーの中に文化財を組み込むことで、天皇の権威にある種の普遍性を与えようとした、と言えるのではないでしょうか。抽象的な書き方ですみません。
「日本文化最高!」の合わせ技として見られるのが「私の先祖はこんなに偉い人で……」。興福寺の復興はこの理由によるところが大きいです。つまり、興福寺はそもそも藤原鎌足が創建したということで藤原氏と深い関わりを持っているのですが、華族制度が整備されたことによって旧藤原氏が団結し、自分の先祖が創った寺を復興しろという要求を国へ出したことが影響していました。最終的には「興福会」という旧藤原氏が運営する団体に皇室から補助金が出て、それによって明治二十一年に興福寺の復興は成就した、というわけです。「幸福会」だと新興宗教みたいで怪しいですね……。
興福寺は10年以上も廃絶していたわけですが、それでも他の寺院と比べれば手厚い保護を受けた方でした。行政支援が本格化するのは大正時代に入ってからですからね。
行政主導の文化財保護の例として、奈良公園も挙げておきましょう。明治十三年に公園開設の許可がおり、明治二十一年に公園拡張の上申書が出されています。現在の奈良公園はだいたいこのときに出来たと言えるでしょう。上申書には公園拡張の理由として「来園者が増えて儲かる」ことと、「敷地の中に社寺を取り込んで保存する」という2点が挙げられています。こちらは非常に早い時期から行政主導で保存活動が進められているのですが、これは興福寺の復興運動とも連動していたようです。
軽くまとめると、皇族・公家ゆかりの社寺が真っ先に保存されていました。吉野山もその典型的な例。吉野山は早くから整備されましたが、完全に行政主導ですからね。では、皇族・公家とゆかりのない社寺あるいは自然公園はどうだったのでしょうか?それについては次節で見ていくことにしましょう。

 4.民間レベルでの文化財保存
上述したような行政からの支援というのはどうしても南都七大寺レベルの大寺院に限られるところがあって、それ以外の寺院はまた別の方法を模索する必要がありました。一般的な方法が、信者を組織して寄付を募ることです。
例えば信貴山朝護孫子寺。明治四十二年に信貴山保勝会会則を定めて、その中で建物や山の景観を維持することが目的である、とはっきり書いています。財政は会員から1口10円の寄付で賄い、その代わり会員には「浴油の秘法」が修行されたとか。熱そうな秘法だな……。
もうひとつ例として多武峰公園を挙げておきます。談山神社を中心とするこの公園は主に旧藤原氏の寄付によって作られました。またまた藤原氏談山神社藤原鎌足の廟所なので。やっぱり有力者と関係のある寺社というのは強いわけですよ、今も昔も。
さて、ここまでで挙げてきた例は全て社寺、あるいは社寺に付属する公園です。純粋な自然公園に補助が出されるようになるのはもう少し後、大正時代に入ってからです。それでも保存しなければ、例えば地元の観光業がだめになってしまうというわけで、散発的ではありますが地元民主導の保存活動も行われていました。月瀬梅林とか(知らないか……)。

 5.まとめ
奈良県文化財保存を総括すると、まず明治初期の廃仏毀釈によって多くの寺院が荒廃しています。その後、廃仏毀釈の反省と国民教化の手段として文化財が注目されたことで、その保存も進められました。
ただ、明治初期から中期にかけては興福寺吉野山など皇室や公家と関わりの深いところが優先して保護され、それ以外の寺院などについては援助がなされませんでした。状況が変わるのは明治末期から。上記の復興運動に刺激を受けた中小寺院などが自主的かつ組織的な保護運動を始めます。信貴山とか、月瀬梅林とか。


 6.それから
大正時代に入ると「史蹟名勝天然記念物保存法」が制定され、多くの社寺に援助が与えられるようになります。あと、講演会なんかもバンバン開かれて文化財の重要性が啓蒙されていくことになるわけですが、ただ、その「重要性」が何に基づいているのか、どういう目的によって文化財は保護されたのかということに注意を払うのも面白いかもしれません。法隆寺とか、現代に生きている僕たちの目から見れば、そりゃあ価値がありますよ。でも価値があるから保存されてきたってわけでは、たぶんありません。