日想徒然型

大したことのない日は、日記を書きたくなる。
シルクの布で包むように。
優しく抱きしめるように。
踊るように歌うように。
とりとめのないものは、とりとめのないまま記述したい。それが最近のテーマ。読みづらいことは承知の上で書き進める。普段とは文体も変えて。特に意味はないので気にしないでよろしいアルよ。
最近は夜中になっても暖かくて、とても嬉しい。今くらいの時期が一番過ごしやすいのではないだろうか。某作品の言葉を借りれば「春が来て、ずーっと春だったら良いのに」という感じ。個人的には四季とか特に必要なかったりする。夏も好きだし秋も好きだが、「季節の変わりめ」というやつだけは大嫌いだ。「式」という名前のつくもののオンパレードで、自分が集団の一部であることを嫌でも自覚させられる。
お昼前にもそもそと起き出して、大学へ。図書館で雑誌を読む読む。「芸術新潮」は良いなー。「ケ・ブランリー美術館」の開館式にレヴィ・ストロースが出席したという記事を読み、ちょっとだけ驚いた。理由は失礼なので内緒。
夜になって「らき☆すた」を見る。アニメの台詞は文法的にしっかりしているなぁ、と思う。この辺はいかにも「アニメっぽい」。現実の会話はもっと省略が多くてデタラメだ。「バイトしてるの?」「派遣で」「マジ?」「マジマジ」こんな感じ。ロシアの偉い人が「芸術的知覚とは、形式が体験されるような知覚のことである」と書いているように、「アニメっぽい」というのはそれなりに重要なことなのだろう。
いきなり話が変わるけれど、言葉を知ることと理解することはイコールではない。いや、理解と誤解は同じものであると言うように、理解したと思った瞬間から袋小路にはまり込む。理解していない、と自覚している状態をどれだけ維持できるかが重要だ。「どうして鳥は空を飛べるの?」という質問に対して「揚力があるからだ」と答えても、何の解決にもならないことを知らなくてはいけない。それはピントがボケている。自戒の意味を込めて。