『市民ケーン』−時間と空間のモザイクアート

「私の自己愛に乾杯だ。誰だって、それしかない」

『サイト・アンド・サウンド』誌1962年度第1位。1972年度第1位。1982年度第1位。1992年度の批評家による投票第1位。世界の映画監督による投票第1位。米国製作映画ベスト100第1位……DHCかよ!
世界の映画史に名を残す、オーソン・ウェルズの処女作。作家は処女作が一番良いと言いますが、こういう作品を見ると確かになぁって感じますね。

市民ケーン [DVD]

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C.F.ケーンというひとりのアメリカ人の生涯をドキュメンタリィ映画にしようとする人々、彼らの視点を通してケーンの人物像が描き出されていくというのがこの物語の骨子。複数の語り手を通している上に時間軸もバラバラにされているのですが、意外なほどわかりやすいというのが凄い。
この優れた編集術は音声と一体のものとして語られるべきでしょう。例えば、短いシーンの中で複数回時間の切り替わりが行われます。それら全ての時間の中で、オーソン・ウェルズはほぼ同じ台詞を言うのです。違うのは台詞を聴いた相手の反応だけ。この同一性と差異のギャップによって、観客は切り替えられた時間と時間の間に何か決定的な出来事が起こったことを自然と理解することが出来るように作られています。
こうした仕掛けによって描かれる複数の視点、複数の時間を通したケーンの人物像にはひとつとして同じものがありません。主人公のケーンについて、オーソン・ウェルズはインタビュー記事の中でこう答えています。

「この男は人非人だ。私が好んで演じ、好んで映画にする人非人どものひとりだ」
−『オーソン・ウェルズ』より−

これには全く同感なのですが、それもまた一面的な見方ではないでしょうか。確かにケーンは自分が信じていない言葉を平然と口にし、人を騙し、結局は全てを失っていく、酷いけれど哀れな人間です。しかし哀れな人間であると同時に、自分が信じていない言葉を口にした後で平然と笑うことが出来る、強い意志を持った最高に魅力的な人間であるのもまた事実ではないか、と。『第三の男』のハリー・ライムといい、オーソン・ウェルズの悪役には引き込まれるものを感じますね。
あと全然作品とは関係のない話なのですが、90分映画に慣れすぎたためか、120分の『市民ケーン』は若干長く感じました。90分を過ぎたあたりから「あれ、まだ終わらないの?」って。慣れとは、先入観とは恐ろしいものです。気をつけましょう。