『Venus Versus Virus』−物語の「内」と「外」

結末をほとんど視聴者の想像に任せる形で物語を終えた『Venus Versus Virus』ですが、ネットで見る限りでは否定的な意見が多いようです。でも、投げっぱなしエンドってそんなに悪いか?とも思うわけで。今回はその辺の問題を考えてみようと思います。簡単な作品紹介はこちら

Venus Versus Virus 1 [DVD]

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この種の問題を考える際、「画面に映っていないもの」との関係性というのは結構重要なことだと思うのですが、いかがでしょうか?例えば実写映画を見るとき、画面に映っているのは広がりを持った世界をフレームで切り取った一部分でしかなく、画面に映っていない物語の「外部」が存在していることを僕たちは直感的に理解しています。それに対してアニメーションという表現形式はどうなのか、という話。
最初から画面に収まるものとして造られた世界に、その「外部」は本来ならば存在しません。そこはアニメにとって不利な点であり、だからこそ「外部」が必要になるのであれば、それを想起させるなんらかの演出が必要になるのでしょう。
で、本題の『Venus Versus Virus』ですが、丁寧に描かれた風景もOP映像も、台詞や歌による物語を正確に代弁するにとどまり、物語の外部へと関心を誘導しない点に特徴があるように思われます。言い換えるなら『Venus Versus Virus』という作品は画面に描かれている部分だけで完結しようとする傾向がある、ということです。
それがいけないという話ではありませんが、最終話における「あとは視聴者の想像におまかせします」的放り投げエンドとはギャップが激しかったかな、と。想像に任せるのであれば、想像の素材となる「作品の外側」をほのめかす演出が必要だったのではないでしょうか。なお、「作品の外側」に対する想像を促す作品例としては、先日も取り上げた『ゲートキーパーズ21』を挙げておきましょう。作品紹介はこちら
ここまで『Venus Versus Virus』否定的な意見を述べさせてもらいましたが、最後に肯定的な意見を。この作品、通してみると悪いところが目に付くのですが、ワンシーンごとに見ると中々素敵な作品です。カメラワーク(?)のセンスが良くて、いちいち人物が綺麗なんですね。つまりデザイン的に優れた作品なのですが、ああ、だから物語としてはいまひとつなのか、とひとりで納得。
物語を物語として見るのが絶対的に正しいわけではないと思うので、その辺に注目して見ることをオススメします。