「踏み込んだオタク」とは何か

ディープにすべての知識を身につけていたほうがオタクは楽しめるのかな?いやいや待てよ、表面だけでもさらっと楽しめるほうがオタク的には広く浅く楽しめるかな?とか戸惑うことがあります。自分が両方のハザマで揺れるので、自分の意見が見つからなくなることもあるんですよネ。
踏み込んだオタクが見えるものと、見失うもの。 - たまごまごごはんより

知識というのは読み方の幅を広げるための前提条件であって、もし知識を得たことで作品を楽しめなくなったと感じたのなら、それは単に「慣れた」だけじゃないのかなぁ、と思います。
少なくとも、作品間の上下を決めたり作品をジャンル分けしたりすることがディープなオタクだとは思いたくないですね。
要するにこういうこと。

座禅をしている人の脳波を取り、5分に1度ベルを鳴らす実験をした。修行をつんだ禅僧と、一般人に同じように座禅をしてもらって比較をする実験である。ベルが鳴ると、どちらも脳波が乱れる。禅僧ならば乱れないだろう、と予想されたがそうではなかった。そして、2回め、3回め、と回数が進んでいく。一般人の脳波は、だんだん乱れなくなってくる。つまり、ベルがまた鳴るな、と予想して身構えるからだ。しかし、禅僧の脳波は、いつまでも同じように乱れたという。無心とは、こういうものであるらしい。
(中略)
たとえば、読書もそうだ。ミステリィなどでトリックや作者のやり方に慣れてくること、それは上達すること、悟りを開くこととは反対である。研ぎ澄まされたのではなく、「鈍く」なっただけのことだ。いつも無心で素直に接することが大切で、それには、常に自分の刃を磨いて、常に自分をリセットする必要があるだろう。諺でいえば「初心忘るべからず」だ。
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/01/post_949.phpより